1926年(大正15年)10月7日付けで「本願寺会館でプロレタリア文学講演会開催」という資料がでてきました。
さて?本願寺?横浜に?
本願寺会館はどこに?
ごもっとも! |
京都にある西本願寺です |
今苦労しているのが“昔の会場”が出てきたときです。
会場=場所の記述から そこがどこにあったのか?
中々特定できない場合があった時イラつくときもありますが、発見できると嬉しいものです。
「本願寺」は横浜のどこにあるのか?本願寺は浄土真宗の総本山で、西と東があります。ということで現状を調べてみました。
現在横浜には本願寺横浜別院(真宗大谷派)が横浜市港南区日野1-10-8にあります。(未踏破です)
手元の資料とネットで横浜の浄土真宗の寺と本願寺の名を調べました。
6項目でてきました。
①中村町池の下
1918年(大正7年)7月6日
法師高橋智泉が真宗大谷派東本願寺説教所を中村町池の下に開設した(信徒200人)。
②蒔田町堂面
1925年(大正14年)3月1日
早島宣正が蒔田町堂面に真宗本願寺派横浜教会を設立した。
③不明
1936年(昭和11年)5月22日
東本願寺横浜別院地鎮式が行われた。
④松ケ枝町
1900年(明治33年)7月8日本願寺支院で仏教大演説会
松ケ枝町は現在の伊勢佐木町2丁目あたりです。現在は所在不明
⑤長者町
1932年(昭和17年)4月18日
日中両国戦死者追悼大会 長者町本願寺別院で開催
現在ある本願寺別院は関東大震災の後、長者町に移ってることがわかりました。ということは③も現在の本願寺別院移転前長者町時代の記録ということです。
現在の城南信用金庫、ラジオ日本あたり? |
そして出てきました。
⑥本願寺会館は桜木町です。別の資料には
「1926年(大正15年)10月7日前田河広一郎らが、桜木町の本願寺会館でプロレタリア文学講演会で講演」
この「プロレタリア文学講演会」では、
前田河広一郎はじめ、新居格、江戸川乱歩、富士辰馬らが講演したそうです。
次に当時の地図が無いかどうか調べました。
昭和6年の地図に「本願寺会館」を発見。現在の地図と重ねた結果、「真言宗寳光寺」が本願寺会館であることが判明しました。些細なことですが結構悦に入る瞬間です。
さて、この講演会の論陣を張った前田河広一郎、新居格、江戸川乱歩、富士辰馬の中では
江戸川乱歩が一番知名度がありますね。
大正デモクラシーの横浜はとても自由で活発な市民活動が行われていた時代です。お寺や教会を会場に様々な講演、弁論が行われました。
関東大震災で一気に時代が“保守化”していきます。
311でこの国が どう変容していくのか?注意深く見ていく必要があるでしょう。
Wikiデータを引用します。
■前田河広一郎
(まえだこう ひろいちろう、1888年11月13日〜1957年12月4日)は、宮城県出身の小説家。日本のプロレタリア文学の勃興期における指導者の一人。
非嫡出子として仙台市仙台市川内大工町に生まれ、母方の伯父のもとで育つ。1905年、宮城県立第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)を中退して上京し、徳冨蘆花に師事。1907年、蘆花の支援を受けて渡米。13年間の滞米生活中、皿洗いや外交員や庭師や邦字新聞『日米週報』記者などの職業を転々とする。この時期、英語で小説を発表。
1920年に帰国。1921年、雑誌『中外』に掲載された「三等船客」で文壇に登場。雑誌『種蒔く人』『文藝戦線』の論客として活躍し、ブルジョワ文学の代表者とされた菊池寛と論争。しかしプロレタリア運動への弾圧の激化によって文壇から抹殺される。
太平洋戦争末期に千葉県へ疎開し、千葉新聞社に勤務。晩年は蘆花の研究に専念して(岩波書店から『蘆花伝』を出版している)いたが、脳溢血で倒れる。動脈硬化と心臓喘息のため東京医科歯科大学附属病院で死去。享年69歳。
■新居格
(にい いたる、1888年(明治21年)3月9日〜1951年(昭和26年)11月15日)は、文筆家。主に評論や翻訳などで活躍。
徳島県生まれ。東京帝国大学政治学科卒。読売新聞、東京朝日新聞の記者を経て文筆業となる。
大正から昭和にかけて評論家として活躍した。モダニズム文学や当時の風俗に造詣が深く、新感覚派の一人だと目されていた。大宅壮一によれば、モガ・モボという言葉を作り出したのは彼だという。
翻訳家としては、著作権侵害で訴えられたパール・バック原著の『大地』が代表作。
政治的にはアナキストだったが、戦後まもない1947年(昭和22年)4月には杉並区の初代公選区長に担ぎ出されて当選している(ただし1年後に辞任)。その後も日本ペンクラブ幹事・日本ユネスコ協会理事・生活協同組合理事として講演や座談会を精力的にこなした。
1951年(昭和26年)11月15日脳溢血により死去、63歳だった。労働運動家・農民運動家の賀川豊彦はいとこにあたる。
■江戸川乱歩
(えどがわ らんぽ、正字体:江戸川 亂?、男性、1894年(明治27年)10月21日〜1965年(昭和40年)7月28日)は、大正から昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家・推理作家である。また、戦後は推理小説専門の評論家としても健筆を揮った。実際に探偵として、岩井三郎探偵事務所(ミリオン資料サービス)に勤務していた経歴を持つ。
本名は平井 太郎(ひらい たろう)。筆名は敬愛するアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーをもじったものである。
日本推理作家協会初代理事長。位階は正五位。勲等は勲三等。
■富士辰馬
※残念ながらWiki他ネットではプロフィール不明。断片的に日刊新聞 萬朝報(よろずちょうほう)記者で、ロシア語に堪能、多くの翻訳をしていることがわかりました。
「新疆を繞る英露支関係の今昔」
「露国の穀価策 (上・下)」
アンデルセン『クルイロフ物語』
『新興露国の種々相』(大正14年刊)
「ドストイェーフスキー全集」
「階級大衆文芸に就いて」
ブハリン『唯物史観』