1978年(昭和53年)飛鳥田市政(1963年〜)から細郷市政(〜1990年)に変わった折
細郷市長は、
横浜市が経験してきた試練を五大苦というキーワードで表現しました。
1923年(大正12年)9月の関東大震災、
1929年(昭和4年)に始まった世界恐慌、
1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲前後の戦災、
1945年(昭和20年)8月16日終戦から始まった米軍の接収時代、
そして
1955年(昭和30年)頃から始まった 高度経済成長下の人口急増
<無からの飛翔力>
選択には一部異論もありますが、一つの横浜を捉えるヒントとしてこの5つの試練から横浜を見つめてみます。輝かしい過去や、先進性の気風に横浜の姿を重ねがちですが、横浜の横浜たる根底には「無からの飛翔力」があるのではないかと私は考えています。
都市の姿としてこの「横浜」を俯瞰した時、
実際 この「横浜」には“輝かしい時代の”僅かな痕跡しか残っていません。
実際開港時の香りは“街区”の形状しかありません。
<運河の町「横浜」>の痕跡も無くなってしまいました。これらの喪失、その大きな要因が「関東大震災」と「横浜大空襲」です。
物理的に失ったこの街の面影に代わる<よこはま>はなにか?
横浜人はかろうじて点在する名残から現在の「よこはま・YOKOHAMA」らしさを追い求めてきたのではないでしょうか。
<埋立ての街>
この意味で 最大の横浜喪失の要因は
1923年(大正12年)9月の関東大震災でした。
都市機能を失い「港都」横浜の地位を揺るがした大災害だったのです。
この震災復興のシンボルが「山下公園」であり、「野毛山」一帯の整備されてきた公園空間でした。中でも<山下公園整備>によって大正の横浜が終わったともいえるでしょう。
→もう少し 災害の記憶をこの公園に残しても良いのでは?と私は感じています。
三菱造船所から「みなとみらい21地区」へと代わることで横浜の昭和が終わり平成が始まります。
まさに「みなとみらい21地区」は平成の横浜を代表するイメージとなりました。
かつて横浜開港場周辺を表現するキーワードとして「運河の街」がぴったりでした。そしてもう一つ横浜が「埋立ての街」です。海岸線の変化で、横浜の変化を捉えることが可能です。
江戸時代の新田開発から始まり、幕末の緊急造成、そして明治・大正の港湾作りのための埋立て。昭和にかけての工業化にシフトしはじめた京浜地帯の埋立て。
そのさなか関東大震災で喪失した街の再生を願い「山下公園」が誕生し
戦後根岸・磯子、そして金沢の埋立てが行われました。
平成の<みなとみらい>と<新本牧>が現在の横浜をある意味象徴しています。
この間、埋立てにより誕生した<横浜駅周辺>が横浜の交通の要衝となっていきました。
「米軍の接収時代」
横浜における米軍接収面積は1604万平米でした。
全国の接収面積の約62%で日本最大の接収規模でした。
(注:沖縄は全土米軍に占領され日本から切り離されていました。日本ではなかったのです。)
1952年(昭和27年)に日米間で「日米行政協定」が結ばれ、ようやく接収解除が始まるはずだったのですが朝鮮戦争により<軍事拠点>として在日米軍施設の役割が増大し、地域によっては接収地域が増えるという状況にありました。
「高度経済成長」
横浜にとって「高度経済成長」がなぜ「苦難」の一つになったのでしょうか?
接収時代に横浜中心部の多くを接収された横浜は
行政機能や基幹施設の移転を余儀なくされ、決してフル回転できる状況ではありませんでした。
ここに、高度経済成長による都市人口集中が起こります。
<横浜>は首都圏の事業所に勤務する従業員とその家族の“ベッドタウン”として夜間人口が急増していきます。
そこには当然、住宅政策、都市基盤整備が急務になっていきます。電気水道ガス等のインフラは勿論、学校や交通網の整備が待った無しの状況に置かれました。当時の学校関係者は「とにかく学校整備が追いつかない。一日を二部制にしたり、プレハブの臨時教室を整備を突貫でしたね」と語っています。
※高度経済成長は実質二波ありました。
wikipediaでは
「日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954年(昭和29年)12月から1973年(昭和48年)11月までの19年間である。一部文献では、高度経済成長第一期(設備投資主導型)が1954年(昭和29年)12月から1961年(昭和36年)12月まで、高度経済成長転型期(転換期)が1962年(昭和37年)1月から1965年(昭和40年)10月まで、高度経済成長第二期(輸出・財政主導型)が1965年(昭和40年)11月から1973年(昭和48年)11月までとされる。」
横浜市の人口は、単純計算で年に十数万人の人口増が十年以上続く事態になります。
(つづく)