●1873年(明治6年)の今日
「日本波止場」が築造されました。
「日本波止場」は開港時から少し場所が変わりました。また「東西波止場」の位置でよく混乱することがありますのでここで整理しておきます。
港が開かれる直前の横浜は約100戸、人口約500人の小さな村でした。
一変したのは、ここが港になったことです。
それも日本初の国際貿易港でした。
開港場の中央に「運上所」ができ上がります。
この運上所をはさんで東側に外国人居留地が広がり、
西側に日本人の居住地が形成されていきます。
ここに東西二つの(まっすぐで)小さな波止場が造られます。
安政6年 波止場がデフォルメされています |
東西の波止場のうち外国人居留地に近い方は「東波止場」と呼ばれ
外国貿易のために用いられました。
もう一方は「西波止場」と呼ばれ内航船の貨物の積卸しに用いられました。
明治25年頃、最初はまっすぐな波止場でした。 |
1863年(文久3年)になると、
※1864年(元治元年)説もあり
貿易量の増大に伴い、現在の山下公園中央付近に新たに「東波止場」が建設されフランス波止場と呼ばれるようになります。一方
元の東波止場は、イギリス領事館(現在の横浜開港資料館)が建てられると、イギリス波止場と呼ばれるようになります。
内航船の貨物の積卸しに用いられた西波止場は築造当初「日本波止場」「税関波止場」とも呼ばれていましたが
1873年(明治6年)の今日
より東側に本格的な「日本波止場」が築造されます。
※象の鼻
1867年(慶応3年)には、東波止場が風浪を避けるために湾曲した形に変更されます。その形が象の鼻に似ていることから一般に「象の鼻波止場」「象の鼻」と呼ばれるようになりました。
No.307 11月2日(金)日本波止場に万国橋
●その他の今日の横浜【9月9日】
1881年(明治14年)の今日
3代目杵屋佐吉、横浜で亡くなります。
杵屋佐吉は江戸時代から続く長唄三味線方の名跡で代々長唄佐門会の家元を名乗っています。
(文政3年(1820年)〜明治14年(1881年)9月9日)
「16歳で森田座に出演し、その後も演奏家として活躍した。当時は、作曲家として鬼勝こと二世杵屋勝三郎、杵屋三郎助、杵屋正治郎等の名手が輩出した時代でもあり、三世佐吉関連では「由加利の花」という作品を三世の弟子である杵屋はつ栄が演奏した記録が残っているだけで、他に目立ったものは見当たらない。しかし三味線は名人と言われ、性質は負けず嫌いの仁侠を好む江戸っ子気質であった。
晩年は横浜で門弟の育成に専念し、明治14年(1881年)9月9日、61歳で病歿。」(Wiki)
●1901年(明治34年)の今日
歴史学者、文学博士、東洋史の概念を初めて生んだといわれる那珂 通世(なか みちよ)が東京〜九州間自転車旅行の帰途に、横浜に立ち寄ります。
尾上町の当時日本有数の自転車輸入商「石川商店」で開かれた「那珂通世東京・九州間自転車旅行歓迎会」に出席するためでした。50歳。
●1922年(大正11年)の今日
6代目尾上菊五郎37歳の時、
横浜鶴見(花月園)に行き、4日に来日したアンナ・パブロバの歓迎会を開きます。
6代目尾上菊五郎といえば、初代中村吉右衛門とともに「菊吉時代」を築いた大正・昭和期の名優で、歌舞伎で単に「六代目」というとこの6代目菊五郎のことをさします。
重ね扇に抱き柏 |
さすが、歌舞伎名跡の芸の広さを感じます。
●1978年(昭和53年)の今日
大通り公園の開園式が挙行されました。
「大通り公園」はいろいろネタがありますので
別仕立てで紹介します。