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【横浜の橋】№4 帷子川河口に架かる橋

目下、横浜の橋の原点ともなる「吉田橋」に関して資料発掘中。
面白い素材を発見したが<謎>が究明できないので別な話題として帷子川河口の簡単な取りまとめをしてみたい。
橋の多くは<川>に架かる。現代は陸橋も多いが、基本 橋といえば川になる。
横浜には大きく四大水系がある。
鶴見川(一級水系)
帷子川(二級水系)
大岡川(二級水系)
境 川(二級水系)
その他に入江川・侍従川といった小さな単独河川がある。
横浜は開港時、大岡川河口域に誕生した。埋立て前イメージ<帷子川・大岡川埋立前イメージ>

light2016-01-22 12.28.20釣鐘状の<吉田新田>の河口域に出っ張った<横浜村>の半島(砂州?)を埋め立てながら街を作り上げてきた。
開港場となる時、横浜は東海道からも一定の距離があり帷子川の河口がじゃまをして開港場にアクセスするには遠回りしなければならない。
そこで「横浜道」というショートカット道を突貫工事でなんとか完成させる。この時にこの「横浜道」のベースとなったのが、江戸時代に埋め立ての始まった新田の<エッジ>だった。
light横浜道図2 ここを仮に<帷子川第一堤防>と呼んでおこう。ここには「新田間川」「平沼橋」「石崎橋」の三つの橋が架かり出口となった。

その後、明治に入りさらに河口域に<帷子川第二堤防>が作られる。
日本最初の鉄道路線の用地として明治の政商「高島嘉右衛門」によって埋め立てられた<鉄道道>だ。「高島嘉右衛門」の事業だったので<帷子川第二堤防>は「高島」の地名が現在も多く残っている。lightM8石崎川 堤防といっても川を堰き止めることはできないので、ここにも幾つか<橋>を設けて川筋を作ることになった。
<帷子川第二堤防(鉄道道)>には「月見橋」「万里橋」「富士見橋」この三つの橋が架かり川の出口となる。明治5年のことだ。

開港から明治初期にかけて、
横浜港は貧弱な「象の鼻」しか無かった。必要に迫られた政府はしっかりとした港湾施設「大桟橋」の設計を英国人技術者パーマーに依頼する。
彼は横浜港北側に防波と帷子川導水(土砂の流れ込むを防ぐ)を兼ねて<帷子川第二堤防(鉄道道)>の真ん中にあたる「万里橋」の出口から湾内に「導水堤」を設置する設計を行う。
light横浜道導水堤lightimg071 1894年(明治27年)に横浜鉄桟橋(現在の大さん橋)が完成し、
1905年(明治38年)には新港埠頭第1期工事が完成、徐々に港のスタイルが固まってくる。一方で、<帷子川第二堤防(鉄道道)>を軸に埋立が進み、内側の<内海>そして外側も埋立が行われ 第二の橋が架かるようになる。
light帷子川埋め立て図 月見橋の先に「金港橋」
万里橋の先に「築地橋」
富士見橋は鉄道用地として埋め立てられ川筋が築地橋に集約され帷子川は二つの橋が出口となった。

大岡川がなで肩の釣鐘状の川筋であるのに対し
帷子川は肩ひじ張った矢羽のような川筋になっている。
この帷子川と大岡川の二つの川があったからこそ 現在の横浜が形成された。
マザーダブルリバーである。
横浜駅周辺、陸の賑わいに消えかかっている<帷子川>だが、
その歴史は橋とともに味わいがある。