●1879年(明治12年)の今日
「午前八時三十分、グランド氏並夫人・令息の一行、横浜停車場に着、神奈川県庁の馬車に乗車して、元弁天東海鎮守府に暫時休憩、同所海岸より小蒸気船にて米国郵船シテーヲフ東京号へ乗船、同十一時発錨す、此時、神奈川砲台及碇泊の各国軍艦より祝砲を発す、此日其神奈川に至るや、内田町に於て煙火を打揚げ、其通路市街、日米国旗を掲げ祝意を表す、着車の際は内外送迎の官員・紳士・紳商、夥敷縦覧、人は停車場より本町六丁目迄立錐の余地なく群集す、為めに一時往来を止む、又祝砲の響を聞き海岸へ走るあり、或は船を雇ふて海面に浮ぶるあり、恰も海岸に人垣を築きし如く、人々別を惜みて汽船の進航を望見して解散せり」
No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)
No.248 9月4日(火)坂の上の星条旗(後)
●1921年(大正10年)の今日
当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)がヨーロッパ各国を歴訪し、予定通り横浜港に到着した日です。
この皇太子ヨーロッパ訪問は、当時の大問題になります。
日本の皇太子が欧州に訪問することは初めてのことで、賛成・反対で大きな議論となります。この時すでに大正天皇は病中にあり、国政も余談を許さない状況でした。
そこに派閥政争のファクターも加わり混迷の昭和時代に突入する前夜ともいえる状況でした。欧州洋行を推進したのが山県有朋で松方正義や西園寺公望、原敬首相も賛意を示します。
一方宮中内保守派は反山県派と共に“大正天皇の病中に外遊に出ることは不敬である”等の理由から猛烈な反対運動を繰り広げます。
※詳しくは皇太子の洋行問題、是非!調べてみてください。
関係者の同意を取り付け
1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの間、皇太子(裕仁親王)はイギリス領の香港に始まり、イギリスとスコットランド。フランス、ベルギー、オランダ、イタリアを訪れます。
9月3日午前9時15分、皇太子(裕仁親王)を乗せた「香取」は航海を終え
横浜港に入港します。
埠頭から淳宮雍仁親王、光宮宣仁親王(高松宮)、閣僚、報道陣が乗る四隻のランチが皇太子を迎えました。
横浜市内も祝賀ムードで「帰朝記念花電車3両も運転」「花火の打上」も実施されました。
出迎えの中に、帝室博物館総長、森林太郎(鴎外)がやや前かがみに歩く姿がありました。
林太郎、晩年の1917年(大正6年)
帝室博物館総長兼図書頭に任命され、在任中は誠実にその職務を務め地味ですが多くの功績を残します。
1921年(大正10年)この日も病気をおして横浜へ向かい皇太子を迎えます。
1909年に横浜市歌を作詞したときの思い出も過ったかもしれません。
そして林太郎は翌年の1922年(大正11年)に亡くなります。60歳でした。
歌人木下利玄(35歳)も「横浜に行き、東宮帰朝の港を見物し、夜の花火を見て帰る。」と日記に残しています。
●1934年(昭和9年)の今日
「株式会社日本飛行機製作所」(横浜市金沢区昭和町3175番地)
発起人総会が開催され10月11日に設立されます。
http://www.nippi.co.jp
根岸競馬場・大桟橋・新港両埠頭が米軍の接収を受けます。