(街道の力)
関内、横浜駅 その周辺になりましたが、
明治期はまだまだ
神奈川(東神奈川)・生麦・鶴見が東海道の街道拠点として
重要な産業集積地でした。
横浜電気鉄道開通当時
「神奈川〜大江橋間」は東京と横濱を結ぶ京浜電車と連絡し、沿線利用者も多く
十分採算が合う市場が路線沿線に存在していました。
第一期の「大江橋〜神奈川」は 当時最も妥当な路線だったようです。
(よくよく見れば)
第一期線(神奈川〜大江橋)開業時の路線は 往時とは異なったルートを走っていました。
鉄道省(国鉄)の横浜・東京間の路線に対し、第一期線(神奈川〜大江橋)は海側を路線に沿って走り、横浜駅(現桜木町)に近づくと大きくカーブし廻り込む形で大江橋近くに停車駅を設置ます。
その後、国鉄路線の変更に伴い桜川に沿って路線が変更になります。
理由は
路線開通の条件として、道路拡張工事の必要があったことや、
国鉄と高島近辺で立体交差ができなかったからです。
【大江橋を通っていない!】
一年後の
1905年(明治38年)7月24日
第二期線(大江橋〜西之橋)が開通します。神奈川と西之橋(元町)が繋がります。
当時のマップをじっくり眺めると
路線は「大江橋」を渡らず
大江橋脇の下流川に鉄道専用の橋を架け馬車道方面に向かっています。
これまで 初期の路線を注意深く観察していなかったので 電車は当然大江橋を通過しているものと思い込んでいました。
この発見は 個人的に驚きでした。
※単に注意力散漫だったということですが。
当時の大江橋の絵葉書にも しっかり「大江橋」下流に別の橋が写り込んでいます。
鉄道と一体化したのは震災後の架け替えからです。
大江橋に市電が走るようになったのは、1922年(大正11年)の架橋架け替えに伴い路面軌道となります。直後に震災により被災することになりますが、いち早く復旧しました。現在の「大江橋」は1973年(昭和48年)に立て替えられたものです。
「大江橋」1872年(明治5年)5月に架設され関内開港場と桜木町(横濱駅)を結ぶ重要な橋で日本初のガス灯が灯った橋でもあります。
この「大江橋」の名は当時の県令(県知事)だった大江卓(おおえ たく)の名をとっています。大江卓、当時大活躍していますので関心のある方はぜひ調べてみてください。代表的な事件は、
「マリア・ルス号事件」です。
No.257 9月13日(水)司法とアジアの独立
(明治・大正初期の路線延伸)
第一期・二期以降の「横浜電気鉄道」新路線開設と
この間にあった(人が移動する要因となる)出来事を併せて年表化しました。
1905年(明治38年)12月25日 税関線(住吉町〜花園橋)開通
1905年(明治38年)12月25日 住吉線(馬車道〜住吉)開通
1906年(明治39年) 5月1日 三渓園 開園
1909年(明治42年) 7月2日 横浜開港50周年開催
1909年(明治42年)10月1日 横浜電気鉄道(のち横浜市電)と連絡運輸を開始します。
1911年(明治44年)12月25日 本牧線(花園橋〜本牧)開通
1911年(明治44年)12月25日 羽衣線(馬車道〜駿河橋)開通
1912年(明治45年) 4月13日 滝頭線(駿河橋〜八幡橋)開通
1912年(大正1年)11月12日 大演習観艦式 開催
1913年(大正2年)10月1日 横浜市勧業共進会(〜11月19日)開催
「駿河橋」は現在の(吉野町一丁目)で、大正2年の大きな博覧会「横浜市勧業共進会」会場を結びました。
1914年(大正3年) 9月19日 弘明寺線 (駿河橋〜弘明寺)開通
1916年(大正5年)10月31日 戸部線 (戸部六丁目〜日本橋)開通
この戸部線(部分)開通を最後に、私鉄「横浜電気鉄道」は路線延長する資金力を失います。
※資料「路面電車のあゆみ」
(駿河橋〜弘明寺)
民営時代最後の拡大事業となった
1914年(大正3年)9月19日に弘明寺線が開通し、横浜市電域西のエッジにはじめて路線が到達します。
一方、1916年(大正5年)10月31日に戸部の丘陵地を越える戸部線(戸部六丁目〜日本橋)に着手しますが、貫通することなく横浜市に買収されるまで未完路線となります。
弘明寺線は前年に開催された「横浜市勧業共進会」に62万人もの入場者が訪れかなり多くの路面電車利用があったことが延伸計画を後押しします。
【芋づる横浜物語】縁は異なもの味なもの2
http://tadkawakita.blog.fc2.com/blog-entry-25.html
【芋づる横浜物語】縁は異なもの味なもの3
http://tadkawakita.blog.fc2.com/blog-entry-26.html
(民営から市営へ)
「横浜電気鉄道」が経営難陥り、横浜市が事業を引き継ぐことになります。
横浜市は
1921年(大正10年)4月1日に横浜市電気局を置き、
「横浜電気鉄道」路面電車事業を買収します。
「いよいよ電車市営を実施するにあたり従来の経過ならびに将来につき諸君の懇情を求めんがため一言述ぶる処あらんとす。
回顧せば約一年前の昨春4月中旬横濱電気鉄道会社は東京この他の例にならい乗車賃値上げを企画し市との報償契約に基づき市の同意を求めきたれり。
この値上げは当時における物価騰貴の影響・従業員待遇の向上等に起因し一応やむをえずと認めたるも(略)
都市における交通機関は市営を妥当とする原則並びに都市計画事業この他と同様市において実施するを穏当と信じかつ東京・京都・大阪・神戸等の市営計画に比し遅れ居るを遺憾としむしろこの機会に於いて特許命令この他に準拠して買収市営の断行を企画せり。」
当時の久保田市長は、メディアを前に市営化の意義を挨拶で述べます。
(公営化の流れ)
民間鉄道から始まった全国の電気電車(路面電車)は、公共性と安定経営を理由に公営化が順次進められます。
1911年(明治44年)
東京市が東京鉄道を買収。東京市電気局を開設し、東京市電となる。
1912年(明治45年)
京都市電気軌道事務所(後の京都市交通局)発足。民営と競合時代。
1918年(大正7年)
京都電気鉄道全線を京都市電の路線として編入。
1917年(大正6年)
神戸電気を買収、神戸市電気局として市営軌道事業開始。
1921年(大正10年)4月1日
ここに初めて「横浜市電気局」(後の交通局)を設置し、
鉄道畑の技術官僚 青木周三を電気局長としてトップに置きます。
この青木を局長にした人事が 横浜市電の運命を決める人事でした。
青木周三は山口県生まれ、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業後、鉄道書記となり鉄道畑を歩み始めます。
この年、1921年(大正10年)に後藤新平の懐刀だった長尾 半平(ながお はんぺい)が東京市電気局長に就任します。
※長尾は、越後長尾家の末裔
同時期に、鉄道省きっての俊才二人が横浜と東京の電気局トップとなります。
続編でも紹介しますが
初代電気局長となった青木周三はその後、関東大震災復興に尽力し鉄道省に復帰、鉄道次官を1935年(昭和10年)まで務めます。※途中 貴族院議員のため辞任
1935年(昭和10年)横浜市長となり1941年(昭和16年)まで在任します。
1923年(大正12年)9月1日に起きた 関東大震災で
横浜の公共交通は大きく変わります。
(【横浜市電域考】3震災を乗越えて に続く)