1934年(昭和9年)6月26日の今日
「日吉村合併問題にからむ流血の暴動事件がおき検事・神奈川署員が出動した(横浜歴史年表)」
この日は、橘樹郡日吉村で臨時村会が開かれます。全日吉村は「横浜市」に入る意見書が緊急動議として提案され決選投票の結果<横浜市合併>が議決されます。
この知らせを聞いた日吉村の一部の村民が異議を申し立て
上記の<暴動事件>が起こります。
日吉村は予てから<川崎・横浜分割合併派><全域横浜派>分かれていましたが川崎市・横浜市、そして仲介に入った神奈川県が条件を協議しますが日を追うごと対立が先鋭化します。
この日、<川崎・横浜分割合併派>は「日吉村川崎市合併期成同盟会」を組織しさらに行動を過激化し、最終的に<川崎・横浜分割合併>となり矢上川を境に川崎市と横浜市に分かれ合併されることになります。
横浜市の市域拡大の過程で紛糾し村を分割した形で合併が決定するケースは<橘樹郡日吉村>だけでした。ただ同時期、横浜市は南の合併にも悩みの種を抱えていました。
久良岐郡六浦荘の合併問題です。(1936年(昭和11年)10月1日磯子区に編入)
この<日吉村顛末>は別立てのテーマで横浜市・川崎市の市域拡大史を整理しているところです。
キーワードは<都市化>に伴う水問題でした。
関東大震災後、多くの都市中心部に暮らしていた住民が郊外へ移り始めます。郊外化が始まる中、鉄道が拍車をかけます。
東京横浜電鉄の<目論見>はまさにここにありました。
一方、工業都市を目指す川崎市、貿易から重工業へ産業の厚みを求める横浜市は昭和に入り首都圏の産業構造の転換を図ります。工場を誘致し自治体の財政基盤を安定させようとする試みが東京を取り巻く首都圏で盛んになります。
結果、そこに必要とされるインフラが<水道設備(利水)>と<洪水に強い(治水・下水)>です。
川崎市は工業都市を目指す上で、多摩川と鶴見川のエリアを整備し市域拡大を目指します。1929年(昭和4年)に中原町と日吉村に対して合併を申し入れます。
中原町内で独立派と川崎市編入派に分かれ対立が激化します。結果、中原町は水道事業の財政負担に耐えられなくなり川崎市との合併を受け入れることになります。
日吉村は、意見がまとまりませんが時間の問題だろうと川崎市側も静観し<粛々と>日吉村を含めた都市計画案を作成していきます。
昭和7年、ここに東急東横線の日吉への慶應義塾誘致計画が持ち上がります。
しかも東急は横浜市に水道の提供を求め、事態が複雑化します。
市域外に市営水道を提供する訳にはいかないということで、横浜市は日吉村に
1933年(昭和8年)6月10日 正式に合併提案を行います。
これに慌てた川崎市は すぐさま7月13日に対案を提示し、一気に村を分けた大問題となっていきます。
川崎市は 生活圏のことなる矢上川を境に<分割案>を
横浜市は 元々提案していた日吉村<全域編入案>を提示し
村は二分、神奈川県も仲裁に入りますが
4年に渡って紛糾を重ね
1937年(昭和12年)4月
横浜市は第5次市域拡大として橘樹郡日吉村の一部を
川崎市は第3次市域拡大として橘樹郡日吉村の一部を編入することになります。
この日吉村が<地政学的>に川崎市の重要エリア(喉元)であったことはいうまでもありません。
(関連ブログ)
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=526
(過去の6月26日ブログ)
No.178 6月26日(火)孟買への道
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=430
1965年(昭和40年)6月26日(土)
インド共和国の最大都市ムンバイと横浜市は姉妹都市締結を行いました。