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第839話 1863年7月4日の日記

7月4日を貴重な「関口日記」から歴史を紐解いてみます。11666224_1012113982166039_3075505724258563392_n この日は、
日本の旧暦では1863年7月4日は<文久3年5月18日>です。
当時の商人の暮らしと気象記録としても貴重な「関口日記」には文久3年の5月は晴天が続く生活誌が記録されています。
旧暦5月3日から5日には節句の柏餅を楽しむ様子が記録されています。10406717_1012114188832685_5363279456248844305_n
『関口日記』は、(現在の鶴見区にある)生麦村に暮らしていた関口家の歴代当主が18世紀後半から20世紀初頭までの約140年間ほとんど休むこと無く書き続けた日記です。日記の中には時折大事件に遭遇した様子も記録されています。
生麦といえば文久2年8月21日(1862年9月14日)に起こった「生麦事件」ですね。11225172_1012114222166015_1815696722144653342_n 日記では事件のあったその日に記録が記されていますが、淡々と事実のみ記述されているだけです。
当時、東海道筋にあたった生麦は<西の大名>の通り道でもあり、時折通過する大名や藩の幹部のための支度の様子も記録されています。
一方
西暦の7月4日はアメリカにとって重要な日です。
<7月4日=インディペンデンスデイ>
1776年7月4日にアメリカ合衆国が独立しその後のアメリカ史ではインディペンデンスデイとして重要な役割を担っています。
横濱でも開港以来、この日7月4日には米国主催の花火大会が行われたり、パレード、港湾内で礼砲がなるなど様々な催しが行われてきました。
米国国内では、例えば1863年7月4日の今日
<35スターフラッグ>合衆国の州が35になった日です。10253996_1012114392165998_2260194514609678986_n この1863年はアメリカ最大の内乱「南北戦争」のまっただ中で、ヴィックスバーグの戦い(5月18日〜7月4日)があり北軍が勝利してミシシッピ川の支配権を確保。この戦いで優勢だった南軍の敗色が濃くなる天下分け目となりました。この時の北軍のリーダーがグラント将軍で後に大統領となり、退職後日本を訪れます。

No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=357

No.248 9月4日(火)坂の上の星条旗(後)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=356
また、日本と開港の交渉を行った際、アメリカは7月4日を開港日に指定しました。(英国の猛烈な反対で7月1日に落ち着きます)

※南北戦争
アメリカが農業立国から工業立国への転換期に起こった内乱で、当時農業経済の労働基盤であった<奴隷制度>を維持したい南部と、工業経済が急速に進展していた北部の利害衝突が戦争の大きな要因となりました。
1861年4月12日に(サムター要塞の戦い)で開戦、軍事力では指揮官クラスが南軍に多く属していたため南軍が最初は優位でしたが、前述のヴィックスバーグの戦いを境にミシシッピ川の支配権を確保したことで南軍の敗色が濃くなり1865年4月3日に南部の首都リッチモンドが陥落。9日には南軍リー将軍が降伏し、南北戦争は事実上終了します。

日本に開港を迫り外交交渉で一歩イニシアチブを取っていたアメリカは南北戦争で事実上日本の幕末外交から姿を消します。
そこに英国と薩摩の「生麦事件」の処理で幕府は混迷を深めます。二度の「下関戦争」も起こり、諸外国と一発触発の国際情勢となっていきます。

1863年7月3日(文久3年5月18日)には幕府が、過去に宣言した「開港場閉鎖と外国人追放」を文書にて撤回せざるを得ない状況となり、開港場の警備体制を英国とフランスに委譲するという事態になります。
その頃中国でも同治2年5月19日(1863年7月4日)李鴻章は「私が大金を惜しまず、一,二名の西洋人を雇った理由は、我が軍隊の混沌状態を一新することにある」(『李鴻章全集』第29巻)
と西洋技術を取り入れること(洋務運動)を決断します。

この頃、文久3年5月12日(1863年6月27日)
長州五傑がジャーディン・マセソン商会の船(チェルスウィック号)で横浜を密出港し英国に渡ります。

No.444 “Choshu five”NOMURAN,Yokohama
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=119
文久3年7月2日(1863年8月15日)〜7月4日(8月17日)には「薩英戦争」で薩摩が大敗しますが、切り替えも早く1865年に「遣英使節団」を独自に渡英させるなど、時代が激しく動き始めます。
文久3年5月18日癸亥晴天
横浜は関口日記によると薄晴の一日で
「今朝子安村之者雨乞ニ参リ候由当節照続田畑作物痛候ニ付十ケ村組合に而小田原道了大権現へ参ル子安ニ而行」
日照りが続き小田原大雄山最乗寺にお参りに行くことなどが記録されています。

No.234 8月21日(火)パーセプションギャップの悲劇
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=373

(過去の7月4日ブログ)
No.186 7月4日(水) 一衣帯水の地 上海
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=421
2010年6月28日(月)から7月4日(月)までの1週間を「横浜ウィーク」と題し、
上海市内において、横浜シティプロモーション、横浜ブランドの市場開拓、観光客・中国企業の誘致を目的とするイベントを集中的に開催しました。lightP6296782 lightP7037519