「関内」という住所は無く開港時の居留地一帯を<関内(かんない)>と呼んでいます。
外国人居留地が治外法権であると同時に、外部と隔絶したエリアであったため、そこに関所を設け関所の内側と外側を表す地域名称として「関内」という名称が誕生しました。
開港後、「関内一帯」は外国人と日本人が日本大通りを中心に住み分けていました。
当時の街区設定がその後も守られ、ほぼ現在まで関内の街区構成は変わっていません。同様にいわゆる関外も明治時代から街区にあまり大きな変化は起こっていません。
ただ、関内外エリア史においてまとまった区画整理事業が行われた時期があります。
関東大震災です。
中区史には
「震災前の街区は、開港以来のものともいえるもので、都市構造の上では、いろいろと不備・不便な点が多かった。
都市構造上の不備な点として、特に道路の幅員の狭さが挙げられる。本町通りや大江橋の通りが18メートルで最も広く、尾上町は15メートルで、大かたの道路は7〜13メートルが多かったのであった。それに、住吉町五丁目の六道の辻は、放射状の六差路で交通の要所ではあったが、道はぱは5.5メートルから11メートルと狭くて不便そのものであった。」
とあります。
震災前と震災後で関内エリアの道路が最も変わったのが馬車道の「六道の辻」近辺です。尾上町通、本町通、関内大通など現在の関内の原型がこの時に完成します。
19世紀にナポレオンの権勢の下でパリの街を自在に切り裂き<大改造>したセーヌ県知事オスマンのように都市の大改造を行った訳ではありませんが、関内外の道路拡張、直線化など、かなり“強行な”街区整理を断行します。
当然この時に、立退き等のトラブルが多発し、区画整理反対同盟なども結成されます。
横浜市史第5巻下にはこの時の反対運動の模様を伝えています。
大正13年
「12月10日自動車八台に「関内区画整理反対期成同盟」と大書した白書を巻きつけ市役所に陳情に向かい、市長・助役に対し「吾々は既に整理地区外たるの故を以て本建築を実施し、警察の許可を受けつつある。然るに最近の市会は此の地帯を以て追加せんとする模様であるが、震災後一個年以上も経過した今日斯る無謀な計画を樹てられては数千人に上る被害者が出る(後略)」
ので取り消せ!
と抗議が続きます。震災後の復興計画の遅れが既に自力で復興を開始した市民に追いつかなかったために遅れて出された<復興計画>で道路拡張するからどけ!というところで紛争が起こるのは当然のことでした。一方区画整理を推進して欲しいという組織も誕生し、市民の対立が激化していきます。
ようやく対話の土俵が大正15年に入り整い、補償申告会が組織されます。この整理を巡る紛争調整を行う機関として
1926年(大正15年)7月23日「横浜市区画整理委員連合会」が結成されました。会長には当時市議会議長で後に市長となった平沼亮三が、副会長には劇作家としても有名な市議会議員の山崎小三(紫紅)が就任します。
この「横浜市区画整理委員連合会」は、民間委員を中心にした組織で関内だけでなく広く震災復興に伴う土地区画整理の紛争調停に尽力し徐々に効果をあげていきます。
大正15年から本格的に始まった復興事業は、例えば関内地区では
馬車道の六道の辻が無くなり
本町通が22m〜27m道路に、
関内大通、尾上町通は25mに拡幅され 街並みが一変していきます。平行して橋梁・河川運河・公園・上下水道などの復興事業も加速され昭和4年にはほぼ完成していきました。
市史によりますと
「区画整理のための移転建物は18,750余棟、潰地充当地は5,283坪、換地面積は787,573坪に達し、整理前宅地面積792,700余坪は整理後674,100余坪へと減少」
公共空間に生まれ変わったことになります。
前述の「六道の辻」に関しては
No.391 謎解き馬車道
に少しエピソードを紹介しています。