2月 27

番外編 幕末明治の年号って苦労します。

明治5年11月9日(1872年12月9日)
突然、本当に唐突に
日本国内の暦が変わるという達しが出ます。
本年(明治5年)12月3日を明治6年1月1日とします。
この日以降日本はグレゴリオ暦、西暦を使いますってことに。
有余は一ヶ月しかありません。暦は生活に密接に関わっていましたから、混乱したでしょうね。
なんたって一ヶ月早く正月が来てしまう訳ですから。
何故急に布告したか?
政府の財政難を乗り越える苦肉の策で
一ヶ月分公務員の給与をカットする算段だったそうで、乱暴と云えば乱暴な話しです。
一方この暦改変をビジネスチャンスにしたのが
福沢諭吉で、慶應義塾出版局から『改暦弁』を出し10万部という当時でも大ベストセラーになったそうです。

幕末から明治にかけて暦は天保暦(旧暦)が使われていました。西暦と合致させるには結構面倒で、時々資料を読んでいると内容が西暦天保暦混在、混乱していることがありややっこしくなります。
西暦年と和暦年は一致しません。
例えば安政4年は1857年と58年にまたがっていますから単純に一致しません。
また時に閏月というのがあります。旧暦にもルールがあるんですが、閏月設定法が複雑なんです。
というわけで 手っ取り早いのが一覧表ってわけで、私は
1850年から1973年まで対応表を作り都度照らし合わせています。

 
2月 27

No.58 2月27日(月)政治家が辞めるとき

市長は政治家です。
役所で唯一選挙で選ばれた政治家です。
数人を除き、その他は全て公務員です。
市長には任期があり、選挙が待っています。だからこそ、首長(市長)の辞め際には様々なドラマが待ち受けています。
1978年(昭和53年)のこの日、第21代横浜市長飛鳥田一雄は市議会議長に辞任の意思を告げました。

飛鳥田一雄は、歴代市長の中で唯一(昭和38年から昭和53年まで)4期15年務めました。
プロフィールの詳細はWikiを参照してください。

飛鳥田は磯子の旧家で医師の家に生まれました。弁護士となり、横浜市市会議員、議会議員、衆議院議員を経て市長に当選します。
基本政策 横浜六大事業をかかげました。
1みなとみらい21をはじめとした都心部強化事業
2これと連動した金沢地区埋め立て事業
3港北ニュータウン事業
4幹線道路事業
5地下鉄事業
6ベイブリッジ事業
このビジョンは彼が横浜市を去った後も横浜市の基本計画として生き続けました。この政策実行には、飛鳥田がスカウトしてきた都市コンサルタントで後に技監となった田村明(退官後法政大学教授)の果たした役割が大きくありました。
飛鳥田一雄の行政評価は個々の判断に任せ、ここでは違った横顔を紹介しましょう。
市長の仕事の傍ら、彼は一人のフランス人実業家について資料を集め研究していました。その人物の名はアルフレッド・ジェラール、1837年にフランスのラーンスに生まれ1863年(文久3年)頃来日、横浜に来ました。横浜では多くの事業を興します。山手の湧き水に着目した船舶用の給水事業は世界に赤道を越えても腐らない「ヨコハマウォーター」の名が轟きました。さらに彼は煉瓦製造工場を建て「ジェラール瓦」を作ります。この瓦を使った建物は現在も幾つか残っています。多才な事業家で母国に戻った後も活躍します。

ジェラール屋敷

この人物に最初に関心を持ち研究を始めた人物こそ飛鳥田一雄市長でした。
当時誰も研究対象にした専門家はいませんでした。今でこそお宝ものですが、ジェラールの工場跡地はしばらく普通の空き地で、瓦の破片が至る所に転がっていました。昭和40年代、私が高校生の頃、屋敷跡から何枚か瓦を拾ってきた記憶がありますが、自宅を探しても見当たりません。(残念です。文字がはっきり読めたのに)地元の人たちもその重要性に気がついていませんでした。
詳しくは飛鳥田一雄著「素人談義三人ジェラール (1974年有隣堂刊)」に語られています。


最後にもう一つ歴史の皮肉ともいえるエピソードを。
飛鳥田一雄は市長を任期終了直前に辞任し、社会党委員長になります。
1980年5月16日に飛鳥田率いる社会党が浜田幸一衆議院議員のラスベガス・カジノ疑惑など一連の自民党のスキャンダルを理由提出した大平内閣不信任案が与党自民党一部による造反で1953年以来27年ぶりに内閣不信任決議可決します。
初の衆参同日選挙が行われますが、選挙中大平正芳の急死により自民党が勝利します。
いわば憤死した大平正芳は、大蔵省入省後税務畑を歩み昭和12年結婚直後、横浜税務署長となりに紅葉坂の官舎に住み、その後(飛鳥田の地元)磯子区字浜1666に転居します。その時、飛鳥田一雄22歳でした。

No.189 7月7日(日) ぼくは日本人を信じます