2月 25

No.56 2月25日 絹と女と桑畑

イギリスの貿易商社ジャーディン・マセソン商会のオフィスがあった居留地1番に建つシルクセンター界隈は横浜の歴史を語る上で欠かせない場所です。1969年(昭和44年)の今日、シルクセンター開館十周年を記念して彫刻家安田周三郎氏の「絹と乙女」像と桑が植樹されました。

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数年前の写真です。現在はかなり剪定されています

light_英一番館84(最近の写真追加しました。悲しいくらい切られていました)

1959年(昭和34年)横浜開港100周年を記念して建てられたシルクセンターについては後日ご紹介します。
今日は、十周年記念として、シルクに因んだ桑の木と絹をテーマにした「絹と乙女」像の作者、彫刻家安田周三郎についてご紹介しましょう。

桑の木は絹を生成するために欠かせない蚕の食料です。良質な桑を生産し安定した温度の下で生育した蚕の繭から良質の絹が生まれます。シルクに桑は欠かせません。
彫刻家安田周三郎(1906年-1981年)は東京生まれで東京美術学校を卒業し彫刻の道に進みました。日展の審査員、評議員を歴任します。横浜国立大学で教授として教鞭もとり多くの教え子を送り出しました。安田周三郎は地元横浜に教師としてゆかりのある彫刻家ですが、彼の姻戚関係は華麗なる一族としても深く横浜に関係があります。
安田周三郎は、安田善三郎の三男として生まれました。
安田財閥創設者善次郎の孫にあたります。安田善次郎の名は鶴見線「安善」駅に残っているように横浜で成功した財界人です。
周三郎は善三郎の三男となっていますが、実は四男でした。
では三男は誰か?
歌舞伎ファンには有名な話しですが、安田善三郎の三男は十三代目 片岡仁左衛門です。十一代目片岡仁左衛門の養子に入りこの世界で人間国宝になります。
兄は画家の安田岩次郎で息子は建築家の安田紫気郎と魚類学権威の安田富士郎です。財界人だけではなく、様々な分野に逸材を出した一族です。
周三郎の妹、磯子は小野家に嫁ぎその娘がオノ・ヨーコです。
No.205 7月23日 (月)駅を降りたら、国際港
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=565

2月 25

No.55 2月24日 YOKUHAMA HOTEL-KANAGAWA

開港時、横浜には様々な国籍の外国人がいました。
イメージ的にはイギリス、フランス、アメリカが目立っていますが、長崎で長く日本とつきあってきたオランダ人も活躍していました。
1860年(安政七年)の今日、オランダ人C.J.HUFFNAGELが居留地70番に日本初のホテルを開業しました。

mms_20100910_0013米国が結んだ修好通商条約に従いオランダと日本が新しく
1858年8月18日(安政5年7月10日)江戸で日蘭修好条約が結ばれました。
ちなみに列強五カ国は同時ではなく個別に修好条約を結びます。
※日米修好通商条約 安政 5年6月19日(1858年7月29日)
※日蘭通商修好条約 安政 5年7月10日(1858年8月18日)
※日露修好通商条約 安政 5年7月11日(1858年8月19日)
※日英修好通商条約 安政 5年7月18日(1858年8月26日)
※日仏修好通商条約 安政 5年9月3日(1858年10月9日)
オランダは、米国に次ぐ二番目の締結でした。
最初に締結した<日米修好通商条約>の批准書を交換するためにアメリカに渡ったのが「万延元年遣米使節団」でした。
この時に太平洋を渡った船が「ポーハタン号」、ペリー日本再訪の際の来日した黒船の一隻でした。「万延元年遣米使節団」正使として新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とするチームでしたが、その随行で(ついでといっては失礼ですが)アメリカに向かったのが「咸臨丸」です。その後、なぜか「咸臨丸」の方が有名になってしまいました。
No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2

No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2


今日番外編で咸臨丸

今日番外編で咸臨丸


No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

【横浜雑景】グランモール公園

オランダと修好通商条約を締結した翌年の1859年、
開港場横浜に一隻のオランダ船が入港します。フフナーゲル(C.J.HUFFNAGEL)船長率いるオランダ国王の名を持つ「ナッソウ」号です。入港の目的は未確認ですがフフナーゲル船長は「ナッソウ」号を売却しその資金でホテルを開業します。その名も「YOKUHAMA HOTEL」(YOKOHAMAではありません)ですが、船の名から「ナッショウ住家(ホイス)」と呼ばれました。しかもチームナッソウのクルーも従業員となります。沈まない船を運営したようなものです。
この「YOKUHAMA HOTEL」オープニングに訪れた(可能性大)二人のオランダ人船長が二日後、江戸幕府を震撼させる事件に巻き込まれます。1860年2月26日の夜午後7から8時頃、本町通りあたりでオランダ人船長のW・デ・フォス(WesseldeVos)と、N・デッケル(JasperNanningDekker)が外国人排斥を狙う攘夷派によって斬殺される事件が起りました。生麦事件が起る二年半前の出来事です。
初めて日本が外国に賠償金を支払うことになった事件です。
「YOKUHAMA HOTEL」のメンバーも近くで起きた事件だけにかなり驚いたに違いありません。
現在居留地七十番の場所には「レストラン かをり」があります。洋上ホテルである豪華客船の元料理長が開いたお店がこの場所にあるのも何かの縁でしょう。

新聞広告の文面
YOKUHAMA HOTEL-KANAGAWA
The undersigned hegs to intimate that be has just opened the above establishment where families and others can be accommodated with comfortable Board and Lodging, in good style and at moderate charges.
The Hotel is well furnished amd beautifully situated,and.having now supplied a long recognized public want,the undersigned relies on the support of residents and visitors,to whose comfort and couvenience every attention will be paid.
C.J.HUFFNAGEL
9ju Yokuhama,February 24th,1860.

2月 25

No.53 2月22日 アーティストツーリング

明治の画壇を牽引した黒田清輝は1902年(明治35年)の今日、東京から横浜まで観梅を兼ねてツーリングに友人七人と出かけました。
全員30代から40代の当時なら中年(ちょいわるおやじ)軍団だったかもしれません。

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本文とは直接無関係ですが明治からサイクリングは人気だったようです

黒田 清輝は、鹿児島県鹿児島市出身の洋画家で薩摩藩士黒田清兼の子として生まれました。
通称は黒田新太郎と呼ばれていました。
「くろだせいき」はペンネームで、本名の読みは「きよてる」です。
築地英学校から東京外国語学校を経て、1884年から1893年まで渡仏します。
当初は法律を学ぶことを目的とした留学でしたが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い子供の頃学んだ絵画への思いが起ち、1886年に画家に転向することを決意します。東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた日本洋画界の巨星です。

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代表作

黒田の日記には下記の通り書かれています。
二月二十二日 土
自轉車旅行の催有り 午後一時を期し品川停車場前の茶見世に會す 來る者久米 佐野 菊地 小代 中丸 小林 合田及拙者の八人也 舊東海道筋を走り横濱を經杉田に到る 此處にて月の出を眺め山を越え金澤東屋ニ一泊
戦前は杉田は梅の名所でした。自転車で観梅ツーリングなんて
なんてしゃれている嗜みでしょう。

ここに登場する8人とは誰だろう?調べました。


●久米桂一郎(1866〜1934)佐賀出身、洋画家36歳。
http://www.kume-museum.com/corner_kei.html
佐野昭(1866〜1955)江戸出身、彫刻家36歳。
菊池鋳太郎(1859〜1944)江戸出身、彫刻家43歳。
小代為重(1860〜1951)佐賀出身洋画家42歳。
中丸蓮一か?東京出身
小林万吾(1870〜1947)讃岐出身、洋画家32歳。
合田清(1862〜1938)江戸出身、版画家40歳。
黒田清輝(1866〜1924年)鹿児島出身、洋画家36歳。

黒田、久米、佐野は同年代で最年長は菊池鋳太郎の43歳です。
このツーリング計画は事前に計画され、その予行練習もおこないました。
明治期は、自動車もほとんど普及していない時代ですから、最先端の移動手段でした。彼らだけではなく、ツーリングブームだったようで、横浜の自転車店も最先端ショップとして繁盛したようです。
(白馬会創立)
このツーリングに参加したメンバーの多くが黒田清輝を中心に発足した従来の画壇に一石を投じようと集まった洋画団体「白馬会」同志でした。
1911年(明治44年)3月、白馬会は、所期の目的を達したとして解散しました。

実は彼らは 事前にちょっとリハーサルをしていました。
二月十六日 日
久米 合田 佐野 中丸 伊藤の五人と自轉車にて雜司ケ谷邊ヨリ飛鳥山へ出田畑根岸へ廻る
二月十七日 月
自轉車修繕の爲合田同道三田四國町へ行 午後二時より文部省ニ於て會議
二月十九日 水
夕刻押川氏 鈴木貫一郎氏を訪ふ 夜自轉車にて三河臺町小代方まで行く
二月二十一日 金
始めて自轉車にて學校へ行 歸路山口勝氏 佛公使館 Andre 氏夫妻ニ逢ふ

もう一つ
 偶然の一致ですが2月22日にもう一つ 自転車に関する偉業が横浜から始まりました。

1902年(明治35)2月22日
日本人初の自転車世界旅行を「中村春吉」が横浜港を出発します。
この時期の自転車は既に現代の自転車とあまり変わっていません。
タイヤも空気入りのセーフティー型が使用されました。
1903年(明治36年)5月に帰国します。
この偉業は 本にもなっていますので どこかで読んでみようか?
と思っています。

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ということは 横浜で撮影?
2月 25

No.54 2月23日 麒麟麦酒株式会社創立

横浜人は、はじめて物語が大好きです。
数ある“横浜はじめて物語”で一番ポピュラーな「はじめて」は「麦酒(ビール)」でしょう。
1907(明治40年)の今日は横浜から育った麒麟麦酒株式会社の創立記念日です。

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開港の都市ですから、多くの文化が横浜経由で入ってきました。
当然、文化の先進性の立地にありましたから「横浜で新しい情報」が入手できたことは間違いありません。
横浜に“はじめて”が多くあるのは新しい情報があっただけではありません。

(起業都市横浜)

成功、失敗かなり繰り返しながらも「起業し、生業を生成してきた」街が横浜であると思います。
その中で、起業の苦難を乗り越えたエクセレントカンパニーが「麒麟麦酒株式会社」です。
麦酒会社を今作るのは至難の技です。
何百という法律に縛られています。
明治時代は、走りながらルールを作ってきました。
矛盾も抱えてきました。「坂の上の」時代です。
麦酒業界も明治期に乱立します。
しかし、1900年代に入ると業界の様相は大きく変化します。海外の例に習い、1901年(明治34年)に新しい麦酒税法が施行されます。
国が近代化するとき必ず安定した税収の柱にするのが「酒税」です。
(独立独歩)
小さな醸造業者各社はその負担に耐え切れず淘汰されていきました。
そこで政官業で極度の競争を回避し安定した市場を維持するため
札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の3社合同により大日本麦酒株式会社が設立されます。
市場シェア70%をこえる独占資本の成立です。

その中で、麒麟麦酒株式会社は三菱グループの下、独自の道を選びます。E3-82-AD-E3-83-AA-E3-83-B3-8.58.05 No.283 10月9日 (火)三角菱のちから

戦後、GHQによる「過度経済力集中排除法」に基づき、昭和24年「大日本麦酒株式会社」は分割され「日本麦酒(現サッポロビール)」と「朝日麦酒(現アサヒビール)」となりました。
財閥解体で大日本麦酒株式会社が東西(南北)で分割され、東がサッポロ、西がアサヒに分社されました。
1954(昭和29年)年にキリンビールは、ビール業界のトップシェアを初めて獲得します。
前々、保土ケ谷にも麦酒会社がありました。
現在の横浜ビジネスパーク(YBP)がある場所ですが、このYBP近くにはビア坂という名称が現在も残っています。
(関連ブログ)
No.40 2月9日 日諾交流