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No.474 横浜を愛した船乗りの夢

20世紀を迎えた1901年(明治34年)、
横浜港に一人のアメリカ人が降り立ちます。
彼の名はカール・ルイス(Karl Lewis)
船員として世界各地を航海している途中でした。
ルイスは富士の見える日本の風景と横浜の街に魅了されます。
早速、桟橋近くにある当時最新のライトホテルに逗留することを決めます。
美しき横浜が彼の愛おしき地になるまで
波乱の人生を追ってみました。

1865年(慶応元年)9月、米国ケンタッキー州に生まれたカール・ルイスは13歳で船乗りとなり、世界中を航海する傍ら“写真術”をマスターしていました。
「この国の風景は“絵(写真)”になる!」
陸にあがった船乗りルイスは、
培った写真技術を活かしてこの街に暮らすことを決意します。
横浜の拠点となったライトホテルは、ゲーテ座やヘボンの指路教会会堂、フランス領事館を設計した居留地きっての人気建築家サルダ(Paul-Pierre Sarda)の設計によって1893年(明治26年)に完成した4階建ての瀟洒なホテルでした。
中でもヨコハマグランドホテルの設計は、国内外に知れわたります。
規模的にはヨコハマグランドホテルには及びませんが、サルダ設計ということで、当時も人気のホテルでした。
No.47 2月16日 ヨコハマグランドホテル解散

カール・ルイスは、写真ビジネスの準備を進めますが既に横浜には多くの写真館が開店し新規参入は厳しいと判断します。
そこでルイスが着目したのが「絵葉書」でした。
欧米では日常的に利用されていた「絵葉書」は、船員だったルイスにとっても身近でその有用性を実感している“メディア”でした。
1871年(明治4年)に「郵便制度」が導入され、1873年(明治6年)に「官製はがき」制度が始まります。当初“前島密”がイギリスの郵便制度を参考に導入しますが、国際郵便は居留地の管理下にありました。
1874年(明治7年)に成立した国際郵便に関する条約(万国郵便連合)に近代化を図る日本も1877年(明治10年)加盟します。

(メディアとしての絵葉書)
1900年(明治33年)“私製はがき”の作製と使用が認められることで、民間企業の市場参入が始まります。
郵便制度というプラットホームに乗った「絵葉書」は、速報性、ビジュアル性、廉価であることから日本中に「絵葉書ブーム」が起こります。
サイズとスタイルを守り“切手”を貼れば自由に郵便制度が利用できることでまたたくまに多彩な絵葉書が登場します。
石井研堂の「明治事物起源」によれば、
1900年(明治33年)10月5日発行の『今世少年』第一巻九号に付録として付いていた「二少年シヤボン球を吹く図」の彩色石版摺り絵葉書が“はじまり”と書かれています。

1902年(明治35年)には官製の「絵葉書」も登場します。
「絵葉書」が日常生活の不動なメディアとなったキッカケが日露戦争でした。
日露戦争関係の官製絵葉書は17種類にも及び、私製はがきも戦地と国内を結ぶ人気の商品となりました。
この日露戦争における「絵葉書」が後の世論形成に大きな影響を与えます。
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ポーツマス条約と日比谷焼打事件 他

(ルイスの絵葉書ビジネス)
大桟橋近くのライトホテルで起業計画を練ったライトは、
撮影した写真を活用した外国向けの「絵葉書」版元を
本村通り(ほんむらどおり)136番地に開きます。

日本人の妻貞子を迎え自宅を仕事場とは離れた上大岡の丘の上に置き、大好きだった“富士山”を眺める生活を送ります。
まもなく
仕事場をすぐ近くの山下町102番に移転し海外向けを中心に「絵葉書ビジネス」をさらに積極的に展開していきます。

当時の絵葉書は「彩色絵葉書」で
写真師が撮影した風景や人物の写真を、絵葉書用紙にコロタイプで墨刷りします。
このモノクロ印刷されたハガキ一枚一枚に手彩色をほどこし完成し、一回の制作部数は数千枚程度で、手間がかかるものでした。

日露戦争が始まることで
空前の絵葉書ブームが押し寄せます。
戦況や国家行事を伝えるメディアとして
安く早い「絵葉書」が多量に使われることになります。
ルイスの絵葉書は、遠くイギリス(ロンドン)で人気を博します。
背景には1902年(明治35年)に締結された日英同盟に象徴される日英関係の接近がありました。特に敵対していた露西亜のアジア進出を危ぶむ英国にとって辺境の情報を知る上でも“YOKOHAMA発JAPAN絵葉書”は重要なメディアとなっていました。

絵葉書が大ブームになることで競合も増えます。
1905年(明治38年)の記録では
日本の国内絵葉書総流通量が4億枚を超え当時世界一の絵葉書消費量を誇った英国に迫りアメリカを凌ぐ勢いとなります。
市場が活性するとそこに、上田義三商会(上田写真版合資会社)、星野屋、トンボヤ、ファルサーリ商会 他多くの絵葉書版元が登場します。

(事業転換)
絵葉書市場は、大正時代に入り大きく状況が変化します。
最大の環境変化は、印刷の技術革新で大量のカラー印刷が実現し、絵葉書の制作コストが大幅に下がり中小の手工業版元の多くが廃業していきます。
1913年(大正2年)カール・ルイスは、廃業を決意します。
自営業を辞め“勤め人”を選び、横浜初のローラースケート場の支配人となり、その後転職を重ね外国自動車の販売会社で長く勤めることになります。
ルイスは昭和に入り1933年(昭和8年)頃、会社勤めを辞め郵趣の世界に戻りますが、すでに日本は外国人に過酷な時代となっていました。
日米関係悪化の中、愛妻貞子に先立たれますが
米国領事館の帰国勧告も拒否し
“老いたる木は移植することができません。
 私の最後がくる時まで私はここにいることでしょう”
と決め敵国人として検挙されながらも友人縁者の努力で釈放されます。
富士山をこよなく愛した“心の日本人”カール・ルイスは釈放後も監視下におかれ軟禁状態のまま42年間の日本生活を終えます。
彼の墓は、自宅に近い富士山が良く見える上大岡の大岡山真光寺にあります。
1942年(昭和17年)5月17日没。享年76歳の人生でした。
※現在の真光寺は若干移動しています。
 現在横浜市港南区上大岡東3丁目
 (関東大震災前)横浜市港南区上大岡東2丁目9
夜景スポット(真光寺)
http://www.yakei-navi.com/yakei/yokohama/kounan_kamiookashinkoji/

参考文献
「絵はがきの時代」細馬宏通 青土社
「横浜外国人居留地ホテル史」澤 護
「明治事物起原」

No.474 横浜を愛した船乗りの夢」への1件のフィードバック

  1. カールルイスの奥さん、貞子さんのお兄さんは函館にいました。
    貞子さんも函館出身だったのかもしれません。
    カールルイスは函館を訪問しています。
    不遇の時代、函館に滞在していたのかもしれません。

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