No.199 7月17日(火)山手独立。

1899年(明治32年)7月17日(月)の今日。
治外法権が解消された通商航海条約が発効しました。
これによって、(一週間後の24日)より横浜居留地で内地雑居(ないちざっきょ)が始まり「山手町」が誕生します。


(互恵への道)
1858年7月29日(安政5年6月19日)アメリカと日米修好通商条約を結び、開国を約束して以来、日本は不平等条約に苦慮します。
政権が変わろうと、革命が起ろうと外交は一貫して過去の条約が生きていますから、治外法権と関税自主権の欠如が明治時代に入り重くのしかかってきました。
「横浜」は、開国後外国人の治外法権エリア「居留地」のある町でした。
貿易上の関税障壁は目に見えにくい不平等でしたが、
居留地(治外法権エリア)の存在は、あきらかに実感できる不平等でした。
欧米列強、特に英国と米国は自分たちの暮らすエリアを現在の山手町周辺に決めます。
そして警備のため自国の軍隊を駐留させます。
(現在の港の見える丘公園周辺)

No.175 6月23日 フランス軍港があった丘

No.129 5月8日 ヒット曲の公園

4月3日 横浜弁天通1875年(モーリス・デュバール)

ここを英米人は英語で”Yamate Bluff”または”The Bluff”(切り立った岬という意味)と呼びました。

(山手と山下)
外国人商館が多く立ち並んでいた、山下町と
外国人が住居や公園を設けた山手町は、地名として“対”になっています。
山の手(小高い場所)とその下のエリアという意が地名となりました。

最初から山手という地名があったわけではありません。
幾つかの段階を経て「横浜市山手町」が誕生します。

元々は、周辺の町村の境界ゾーンでした。
久良岐郡北方村、石川村、中村、根岸村の隣接する山間丘陵地が
現在の山手ゾーンでした。
明治に入り、
国内の行政区分が整理され、全国の郡区町村編制が行われます。
開港以来治外法権となっていたこの場所にも新しい町村区分を施行しますが、外国人居留地として町村名が除外されます。
その後、すぐにこの居留地も日本の土地ということで、1884年(明治17年)7月に26の町が設けられます。
谷戸坂町、山手本町通、富士見町、内台坂、西坂町、地蔵坂、小坂町、大丸坂、撞木町、環町、公園坂、西野坂、汐汲坂、高田坂、三ノ輪坂、稲荷町、南坂、貝殻坂、宮脇坂、陣屋町、諏訪町通、弓町、畑町、矢ノ根町、泉町、林町
現在これらの一部が坂名や地名として残っています。


(山手ブランドを守ったもの)
現在横浜でも有数の高給住宅地としてブランド力を持っている「山手」ですが、
今日まで上質の環境が維持されてきたのは偶然ではありません。
最初は外国人によってつくられた住宅地ですが、戦後はこのエリアに暮らす住民の手で、議論し合意形成しながら街の環境を守ってきた歴史があります。
こここそ、歴史的文脈に沿った街並が現在に活きているゾーンといえるでしょう。
閑静な暮らしを維持したい思いと、観光資源としてより多くの人々に街の資産を共有していきたいという願いの調和が山手の強い原動力になっています。

「山手まちづくり推進会議」
http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/project/community/09yamate.html

http://sns.hamatch.jp/community/?bbs_id=592

(不平等条約改正交渉の歴史)
簡単に歴史を振り返っておきます。
1871年(明治4年)
 岩倉具視ら一行が最初の不平等条約改正交渉のため欧米各国に向かいます(遣欧使節団)が大失敗します。
その後、寺島宗則、井上 馨、大隈重信、青木周蔵、陸奥宗光と歴代の外務大臣が改正を目指しますがうまくいきません。
内地雑居(外国人の国内移住移動の自由)を認めれば外国資本による侵略が進み、日本の伝統的な文化や生活が破壊されるという日本国内の保守的な立場と
日本は未だ非文明国であるのだから領事裁判権を維持するのは当然という列強の立場で
治外法権の居留地が必要だという考えが不平等条約撤廃を遅らせます。
1894年(明治27年)7月16日に日英通商航海条約が調印
遅れて1894年(明治27年)11月22日に米国と調印、
以降
 翌1895年(明治28年)にかけて同内容の条約を欧米各国と結びます。
結果、調印から5年後の
1899年(明治32年)7月17日の今日治外法権が解消された条約が発効し、
日本は長年の不平等条約撤廃を大きく前進させました。これが
第二次伊藤内閣の外務大臣となった陸奥宗光によって治外法権を完全に撤廃することができた通称「陸奥条約」といいます。
 1.領事裁判権及び特権撤廃
 2.日本国内を外国人に開放
 3.関税自主権の一部回復
 4.相互対等の最恵国待遇
 5.条約は1899年発効。
 有効期間は12年間(1911年まで)とします。
 が 目に見えにくい関税自主権は不平等のままでした。
ようやく
1911年(明治44年)に小村寿太郎が関税自主権の完全回復を調印し互恵関係が成立します。
半世紀以上かかって日本は初めて独立を果たすのです。

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