1901年(明治34年)の今日
「太平洋電線敷設に関する建議書を提出する。(横浜商工会議所百年史)」
日米の通信(太平洋の電線敷設)は、明治初期からの懸案事項でした。
日本における国際通信の歴史は意外に古く
1870年(明治3年)10月
日本政府はデンマークの電気通信事業会社「大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ株式会社)」に免許状を発行し、
1871年(明治4年)8月に事業が始まります。
まず長崎と上海が海底ケーブルで結ばれ、通信ビジネスが始まりますが、当時最も貿易量が多かった日米間の通信は中国から欧州経由で国際電報によって行わなければなりませんでした。
日米直結の太平洋ケーブル計画は、通信が欧州からアジアに開通した明治初期からの念願で、
特に国内最大の対米貿易都市横浜にとって「太平洋ケーブル敷設」は悲願でもありました。
実はデンマークの電気通信事業会社「大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ株式会社)」が日本に通信ケーブルの陸揚げ申請をした時期に米国も日本政府に対し通信ケーブルの陸揚げ申請が出されています。
何故米国の通信事業が実現しなかったのか?
最初の申請がワシントンと函館等を結ぶものだったため<明治政府>は、横浜・長崎以外の接続(陸揚)を認めませんでした。
<明治政府の反応は江戸時代と変わらない発想ですが、米国もなぜ弱気の北米経由だったのか?>
日米間のケーブル通信が実現にはその後 かなりの時間を必要としました。
(日米接近)
日本の経済界にとって、特に横浜経済界にとって日米のダイレクトな通信回線設置は悲願でした。
1881年(明治14年)
日本国最初の外国首脳訪日となったハワイ王カラカウア王一行の正確な到着時間も(欧州経由)電信で伝えられ日本政府は歓迎の準備ができ、その有効性を実感しました。
来日したハワイ国王とも太平洋通信計画が話し合われたそうです。
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
(大谷嘉兵衛の奮闘)
1899年(明治32年)
横浜商工会議所会頭 大谷嘉兵衛は米国フィラデルフィアで開催された
第一回国際商業会議所会議に出席、日本代表として米国に建議書を渡します。
この建議書は、国際商業会議において<決議>され米国政府、米国議会に提出され、日米通信の機運が高まります。
米国では1901年までの二年間で約18の太平洋通信の議案が提出されますが、政治的思惑や経済的なリーダーシップの対立でことごとく廃案となってしまい実現することはありませんでした。
<アジア特に日本は欧米間と比べ空白地帯でした>
その後、米国政府の決定を見ぬまま
補助金無しでハワイ〜マニラまで
民間資本によって<ケーブル敷設事業>が開始されます。
1903年(明治36年)
太平洋通信回線がサンフランシスコ〜ハワイ〜マニラまで開通。
その後マニラ〜グアム〜父島間の回線とを繋ぎ
1906年(明治39年)8月1日
最終的に
太平洋が通信線で繋がることになります。
No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始
(大正のロッキード事件)
大正時代にはこの通信回線を使った一通の電信が大問題となる
大正のロッキード事件「シーメンス事件」です。
この事件も横浜が舞台でした。
No.23 1月23日 大正の正義
※絵葉書画像「日米海底電信直通紀年」
1906年(明治39年)8月1日の記念スタンプ
No.345 12月10日(月)Tea or Coffee?
日清戦争後、
日本国内でも大北電信会社に依存する状態を懸念する動きがでてきます。
政府レベルとは違う民間の視点でも日米通信の実現を強く希望したのが横浜でした。