横浜の出来事を年表からピックアップしました。
今日は追跡してみたいテーマ満載です。
★マーク付けてみました。
●1870年12月13日(明治3年)の今日
「森有礼(23歳)横浜に出張し、アメリカ公使館にデ・ロング公使を訪ねる。」
12月13日がなぜ10月21日の話題に?
西暦1870年12月13日、旧暦では?
明治3年閏10月21日にあたりますので、今日にいれました。
森有礼がわが国の初代駐米外交官です。任命され、横浜の米国公使館に挨拶に出向いた日が今日です。
まさに1870年11月(明治3年閏10月)に海外駐在外交官の制度を初めて制定しイギリス、アメリカ、フランス、プロシア(現在のドイツ)に各1名の外交官が派遣されることになります。その1人が森有礼です。役職は少弁務使(代理公使、charge d’affaires)でワシントンに2年間在勤します。
外務大輔(がいむだゆう、現在の外務次官)や
英国公使などの要職を歴任しましたが、
1889年(明治22年)2月11日森は、文部大臣在任中に暗殺されてしまいます。
この日は、大日本帝国憲法が発布された日です。
★★
●1875年(明治8年)の今日
「金子喜一が横浜の笹下に生まれる。」(ちょっと長文です)
横浜市港南区笹下に生まれた金子喜一は、ジャーナリスト、社会主義者として米国で活躍した人物です。一般の人物資料には1899年(明治32年)米国に渡ったあとの活動が中心に紹介されていますが、彼が米国に発つ前の金子喜一の活動も調べてみると興味ある活動をしています。
まず米国での活躍に関して
渡米してハーバード大にまなび、社会主義に傾倒し様々な社会運動を起こしました。米国から日本の「万朝報(よろずちょうほう)」や週刊「平民新聞」などに寄稿し、後には「シカゴ-ソーシャリスト-デーリー」の記者となりました。現地で妻となったジョセフィン・コンガーは米国のフェミニズム運動家として活動し
夫婦で発行した「The Socialist Woman」は米国社会運動史上の残る先駆的なフェミニズム運動誌として評価されています。
金子は体調を崩し、
1909年(明治42年)に療養のため帰国しますが10月8日に34歳の若さで死去。
では、渡米前の金子喜一に就いて超簡単に紹介しましょう。
1876年(明治9年)金子喜一は、横浜市港南区笹下に富裕でリベラルな名主の家に生まれました。
横浜神学校で英語を学び、徳富蘇峰の書生となって文学を学びます。
この時期に、神奈川県久良岐郡日下村出身の小原輿三郎(金子の弟子)の仲介で、樋口一葉と出会います。以後、亡くなるまで思想・文学の分野で影響を与え合うことになります。
1896年(明治29年)11月26日に「一葉女史を悼む」という記事を毎日新聞に残しています。樋口一葉が(11月23日)に亡くなった3日後のことです。
「今夏七月、余が笹下の草庵に厭きて再び都に上らんとし、端なく君を訪れし時、女
史我を迎えていわく、君今より何処に住まわんとするか。いわく未だ決せざるなり。しからば本郷を選ばれよ、ねがわくは近く共に相語らんと。越えて八月、余が台町に居を移してより再び君を訪いしに、なんぞ図らん、君は既に病床に臥してありぬ」
彼は一葉の葬儀に数少ない参列者の一人として参列しています。
この葬儀の時に、樋口と少し交流のあった実業家で日印協会創設に関わり第2次世界大戦終結まで協会専務理事として日印親善に貢献した副島八十六と出会い、
副島は日記に後日彼のもとを訪れた金子を
「八時半まで快談にふける。彼は一種の抱負を有するもの、将来永く交るに値せり。特に彼は一葉女史の眞の知己たり。女史を追憶するの情更に一層切なるを覚ゆ。」
と書き残しています。
1898年(明治31年)徳富の紹介で「埼玉経済新報」の主筆となります。
この年、日本で初めて社会主義研究会が組織され入会を勧められます。
(活動の中心には片山潜、幸徳秋水、安部磯雄らがいました)
1899年(明治32年)米国に旅立ちます。
●1890年(明治23年)の今日
「川上音二郎(26歳)横浜に行き、蔦座で開かれた政談演説会で、「田中子爵に九寸五分を呈す」を演説し、中止を命じられる。」
政治的公演で物議は常連の川上音二郎です。
No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演
●1892年(明治25年)の今日
在留33年のヘボン博士夫妻が帰国しました。
帰国に先立ち10月15日には尾上町の指路教会で自らの人生を振返る講演会が開催されました。
その後、1909年(明治42年)の今日
尾上町の指路教会で「ヘボン博士来朝記念演説会」が開催され
植村正久(51歳)が「智者の夢」を講演
島田三郎も「ヘボン博士に就て」を講演しました。
※ある意味10月21日は横浜ヘボン記念日かもしれません。
No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者
★★★ジェームス・カーティス・ヘップバーン
ヘボンことジェームス・カーティス・ヘップバーンは一度まとめてみたい横浜人脈のキーマンです。
●1929年(昭和4年)の今日
「仮名文字会横浜支部第1回国字問題大講演会が開かれた」
→この記事、気になるんです。
横浜に支部ができたという記事ですが
この「仮名文字会」横浜に関係なく★★★★の話題です。
●1950年(昭和25年)の今日
横浜国際港都建設法公布
●1963年(昭和38)の今日
「市長への手紙」用ハガキを市内全世帯に配付
現在
「 横浜市は「市長への手紙」や「インターネット市政提案箱」などの広聴のあり方を見直し、 市民に身近な区役所を窓口とする「市民からの提案」制度となっています。」
●1963年(昭和38)の今日
内防波堤の白灯台撤去
この「白灯台」ネタはもう少し追っかけてみたいネタです!
★★★
No.105 4月14日 白の悲劇
●1978年(昭和53)の今日
商工会議所100年記念式典・全国商工会議所議員大会が開催される(22日、全国郷土祭)。
●1987年(昭和62年)の今日
上海の横浜経済貿易事務所開設