横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1886年(明治19年)の今日
「横浜の麦藁真田紐製造所の新築が落成した」
麦藁真田紐(むぎわら さなだひも)は【麦稈真田紐(ばっかん さなだひも)】とも書き、麦わらを平たくつぶし真田紐(さなだひも)のように編んだものを指します。
真田紐は縦糸と横糸を使って織った平たく狭い織物の紐のことで、麦藁で真田紐のように編んだものを使って麦わら帽子(ストローハット)を作り、日本各地で地場産業として盛んに行われました。
本文とは関係ありません。埼玉県春日部市の地場産業です。 |
特に戦前は“麦わら帽子”がさかんに外国へ輸出され、製造素材として麦藁真田が製造されました。
その輸出を担ったのが横浜港です。
※絹製品と同様に、需要の高まりに伴い粗製濫造が起こり、全国の麦稈真田製造を行っていた中小企業の多くが破綻します。
1920年頃の工業用ミシンは米国シンガーが独占状態でした。昭和に入り
ブラザー工業が「麦わら帽子製造用環縫ミシン」を開発し大ヒットします。
https://museum.global.brother/guide/zone/1/10?lang=ja&_ga=2.233123099.482062017.1651186413-1442387065.1651186413
「昭三式ミシン(麦わら帽子製造用環縫ミシン)の商標を「BROTHER」と定めて市販開始」
●1926年(大正15年)10月9日付けで
「横浜新報もしほ草・江湖新聞」が明治文化研究会から小野秀雄の校訂で発行されました(全500頁で索引が付いている点が特徴)
元々『横浜新報もしほ草』は、
明治のマルチタレント“岸田 吟香”が米国人ヴァン・リード(Eugene M. Van Reed)と共に慶應四年に横浜の外国人居留地で発行された新聞です。
日本初の日刊新聞「横浜毎日新聞」の誕生以前に横浜で生まれた新聞の一つです。
一方「江湖新聞」は、福地桜痴が1868年(慶応4年)江戸で創刊した佐幕派の新聞で絵入り・総仮名付きの新聞です。
新政府を否定的に論じたため第22号で発禁処分となります。
この二つの画期的な新聞を1926年(大正15年)に復刻し、話題になります。
復刻に尽力した小野秀雄(おの ひでお)は日本のジャーナリズム研究、マス・コミュニケーション研究の先駆者といわれた人物で、「新聞学」「新聞史」を確立した一人です。この本の発行元となった「明治文化研究会」は吉野作造が主宰し、小野秀雄や宮武外骨 他当時の多くの言論人が関わります。
『横浜新報もしほ草』は,神奈川大学のデジタルアーカイブで閲覧できます。
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/4462
No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者
●1897年(明治30年)の今日
「大佛次郎、横浜英町で生まれる。」
大佛次郎は横浜出身の代表的な文学者です。
父が日本郵船会社社員だった関係で横浜市に生まれ、明治37年4月に太田尋常小学校に入学するまで横浜で育ちますが、翌月東京新宿に転居します。
港の見える丘公園に大佛次郎記念館があります。
http://osaragi.yafjp.org
彼に関しては 別の機会にぜひ紹介してみたい横浜・鎌倉に関係の深い人物です。
横浜英町は、現在の横浜市中区英町で、黄金町駅の近くです。
●1942年(昭和17年)の今日
「オーストラリア方面の外交官や引揚者を乗せ鎌倉丸が帰国」と横浜市史II・1下1015に記録があります。Wiki『日本郵船戦時戦史 上』では10月8日、大内氏『商船戦記〜世界の戦時商船23の戦い』によれば9月27日とありますがここでは市史を採用しました。
「鎌倉丸」は1941年(昭和16年)日本海軍に徴用され特設運送船となります。
1942年(昭和17年)10月9日の航海が交換船として最後の任務でした。
(交換船)
交換船とは
第二次世界大戦当時に、開戦により交戦国や断交国に取り残された外交官や駐在員、留学生などを帰国させるために関係国の船舶で運航された船のことです。
敵国の関係者と自国の関係者は“中立国に寄港”し、交換が行われました。
交換船は戦時国際法に沿って「交換船として運航される全ての船舶はすべて民間籍であること」と定められたため、民間船舶が“徴用”されることになります。
浅間丸(16,975トン、日本郵船)、龍田丸(日本郵船)、帝亜丸(日本郵船)
※アメリカ生まれのジャニー喜多川(後のジャニーズ事務所社長)も第一次日米交換船グリップスホルム号に乗船し帰国しています。
鎌倉丸は
→1942年(昭和17年)に日英交換船として東アジアの英国領と日本を往復しました。
(再び海軍徴用船)
横浜に最後の交換船として交戦国、自国の関係者を搬送した後、鎌倉丸は再び軍の徴用船として航海に出ます。
1943年(昭和18年)4月15日に神戸からバリクパパンへ向け出航したのが最後の航海となります。
鎌倉丸は1930年竣工時に「秩父丸」と命名されましたが、1939年に鎌倉丸(かまくらまる)と改名されました。その事情を含めエピソードは
No.38 2月7日 鎌倉丸をめぐる4つの物語
●1956年(昭和31年)の今日
「屏風ヶ浦漁協・同海岸埋立反対期成同盟が磯子海岸埋立に反対」
磯子は戦前人気の海水浴場でしたが、戦後最も早くしかも全面的に埋立が行われ工場が誘致されます。