横浜年表ピックアップ【10月12日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

●1890年(明治23年)の今日
「イギリス人スペンサーが横浜公園内で軽気球にのつて自由飛行の技を演じた」
昨年の「暦で綴る今日の横浜」ブログで紹介しました。
No.286 10月12日(金)初の空中PR横浜で (加筆修正)

●1899年(明治32年)の今日
「尾崎三良(57歳)横浜港から日本郵船の「八幡丸」に乗り、神戸から京都に向かう。三条実万公四十年祭に列席する。過日の大風雨のため東海道線が不通になったことによる。」

尾崎三良に関しては
「番外編」10月17日こら!ちゃんと仕事せい!

尾崎が向かった三条実万(さんじょう さねつむ)公四十年祭は幕末の公卿三条 実万の贈正一位に追陞[ついしょう]された式典に参列するために京都に向かいますが
(恐らく台風で)鉄道が不通になり、復旧が遅れたために海上ルートで関西に向かいます。

●1919年(大正8年)の今日
「河東碧梧桐(46歳)横浜に行き、神奈川台の田中屋で開かれた送別会に出席する。」
ミモーザを
 活けて一日
留守にした
ベットの白く
河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)は日本の俳人・随筆家で、伊予松山出身。正岡子規の友人で、秋山真之を敬愛していました。
従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句運動を起こし俳句界に一時代の足跡を残します。独特の書体で飯田九一文庫百人の一人にも選ばれています。

送別会の行われた「田中屋」は、幕末の開業で坂本龍馬の妻、おりょうが働いていたといわれていることで有名な料亭です。
http://www.tanakaya1863.co.jp

●1922年(大正11年)の今日
松尾邦之助(22歳)逓信省無給嘱託として
横浜港から諏訪丸で出航しフランスに向かいます。
二等船客で船賃は六百七十円だったそうです。
松尾邦之助(まつお くにのすけ)は新聞記者、評論家、翻訳家。
1922年(大正11年)からパリに暮らし、
1928年(昭和3年)に一時帰国しますが日本で結婚、妻を連れて再び渡仏します。
フランスでは藤田嗣治とも親交があり、彼らの支援も受け
出版活動や翻訳活動を行います。
1940年(昭和15年)の日米開戦前夜、
妻ひろが藤田嗣治・高野三三男らと帰国し
松尾邦之助は欧州に留まり敗戦後の1946年1月、引揚船で帰国します。
1958年(昭和34年)『レジオン・ドヌール勲章』を贈られます。

●1934年(昭和9年)の今日
「横浜合併を否認された日吉村で当局糾弾村民大会がひらかれた」
横浜市港北区日吉はもしかすると 川崎市中原区日吉になっていたかもしれません。
この微妙な“国取り合戦”を紹介します。
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発

●1948年(昭和23年)の今日
第1回県営戸塚競馬開催。
戸塚競馬場は1933年(昭和8年)吉田町の水田を埋め立てて開場します。
現在も柏尾川に架かる矢部町の駒立橋は競馬場に因んだ名前です。

No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史

●1977年(昭和52)の今日
横浜市はルーマニアのコンスタンツァ市と姉妹都市として1965年(昭和40年)7月1日に提携し、今日10月12日にさらに交流のはばを拡げる「友好姉妹都市」提携調印のためコンスタンツア市長が横浜市に来訪しました。

ルーマニア国旗


他の友好姉妹都市
※サンディエゴ(アメリカ合衆国)→1957年(昭和32年)10月29日提携
※リヨン(フランス共和国)→1959年(昭和34年)提携
※ムンバイ(インド)→1965年(昭和40年)6月26日提携
※オデッサ(ウクライナ)→1965年(昭和40年)7月1日提携→心配です。
※バンクーバー(カナダ)→1965年(昭和40年)7月1日提携
※マニラ(フィリピン共和国)→1965年(昭和40年)7月1日提携

交流に関心のある方は
横浜コンスタンツァ友好委員会
「横浜コンスタンツァ友好委員会事務局」 
住所: 〒233-0012
 横浜市港南区上永谷2-14-35 光里 友岐 方
電話: 045-843-3071
FAX: 045-843-3008
担当: 光里 友岐(委員長)

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