11月 9

第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース

1930年(昭和5年)の暮、横浜市が震災復興に一つのメドがついた頃
市電社内刷りPRとして「市電ニュース」が発行されました。
ちょうどこの頃、横浜市内の市電網が最も精力的に整備され、市域トラフィックの軸となっていきます。
当然ですが元気な商店街はこの時期に拡張された市電域と重ねることができます。
六角橋商店街・洪福寺松原商店街・弘明寺商店街・杉田商店街・横浜橋商店街・浜マーケット・かつての生麦魚河岸通り・藤棚商店街 他
横浜の都市形成を考える上で 市電域の研究は必須です。
と宣言しつつ 途中までですが 下記のシリーズも継続していきます。

【横浜市電域考】1路面電車の時代

【横浜市電域考】1路面電車の時代


【横浜市電域考】2創業期の時代 

【横浜市電域考】2創業期の時代


【横浜市電域考】3震災を乗越えて

【横浜市電域考】3震災を乗越えて


【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦

【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦


【横浜市電域考】5市電域の終着駅 六角橋

【横浜市電域考】5市電域の終着駅 六角橋

【市電ニュースの風景】第一号その1

【市電ニュースの風景】第一号その1


【市電ニュースの風景】第一号その2

【市電ニュースの風景】第一号その2


【市電ニュースの風景】1931年  №17

【市電ニュースの風景】1931年  №17


【市電ニュースの風景】1931年 №18

【市電ニュースの風景】1931年 №18


【市電ニュースの風景】1931年 №19

【市電ニュースの風景】1931年 №19


【市電ニュースの風景】1931年 №20

【市電ニュースの風景】1931年 №20


【市電ニュースの風景】1931年 №21

【市電ニュースの風景】1931年 №21

それぞれの写真キャプション未整備です。(ハガキ、写真は個人蔵)

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11月 8

第919話【横浜の小さな橋】大清水橋(滝ノ川)

Google Earth

滝ノ川に架かる「大清水橋」
かな表記は「だいしみずばし」だが市の橋梁台帳では「おおしみずはし」となっている。読みが全く異なるもの珍しい。理由は近所に60年暮らす方に聞いても解らなかったが、その方は「おおしみずばし」だと思っていたようだ。
滝の川だと神奈川区、滝ノ川は境川の小派川となる。「滝ノ川」の名は神奈川東京に多くあり、小さいが時に滝のように流れるからかもしれない。
横浜市戸塚区小雀町付近(公文学園)あたりを源に横浜市と鎌倉市の境付近を沿うように流れ、藤沢市に入り、藤沢宿近くで境川に流れ込む。普段は殆ど水量の少ない川だが、一旦雨が降ると一気に水量が増し、両脇の畑が浸水することもあるという。
長さと幅がほぼ同じくらいなので橋面は四角い感じがする。記憶違いかもしれないが、
かつてこの橋の近くを横浜ドリームランド線(モノレール)が走っていたころ、車両が交差するポイント近くを流れる小さな川の記憶が残っている。
少し小高い尾根筋のような<国道1号線>と横浜市水道局小雀浄水場のある丘に挟まれた谷戸が滝ノ川。現在も川沿いには畑が多く残っている。実はこの「大清水橋」はかつて神奈川有数の渋滞交差点「原宿」の迂回路として使っていた個人的に懐かしい橋だった。今冷静に地図を眺めるとやたら遠回りで、少しは時間短縮に役立ったのかドウか実に怪しい抜け道だ。でも渋滞で頻繁にアクセルとブレーキを踏むより<走る>ことでストレスレスだったのかもしれない。
ただ少し小高いところから<冬場に限るが>見る富士はなかなかである。

小雀から富士
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11月 7

第918話【横浜の企業】索引編

これまでのブログが殆ど整理されていないこと、気にはなっていましたが、
気になり始めた時にすでに500話を越え、諦めました。
できる範囲で 索引的なものも作りました。(自分の確認用!)
2017115時点 更新していきます。

No.54 2月23日 麒麟麦酒株式会社創立

No.54 2月23日 麒麟麦酒株式会社創立


麒麟麦酒株式会社

No.66 3月6日 ラーメンがなくなる日

No.66 3月6日 ラーメンがなくなる日


新横浜ラーメン博物館

No.76 3月16日 東京放送と横浜市

No.76 3月16日 東京放送と横浜市


(株)緑山スタジオ・シティ(MSC)

No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本

No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本


自転車製造業 梶野仁之助 他

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?


古河電線の前身、中島 久万吉他

No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王(加筆修正)

No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王(加筆修正)

No.475 点・線遊び「足利尊氏からフェリスまで」

No.475 点・線遊び「足利尊氏からフェリスまで」


古河電線

No.315 11月10日(土)オンリーワンEV

No.315 11月10日(土)オンリーワンEV


横浜エレベータ株式会社

No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば

No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば


中区伊勢佐木町に第四有隣堂が創業

No.272 9月28日(金)横浜の中の世界のノナカ

No.272 9月28日(金)横浜の中の世界のノナカ

【番外編】横浜サウンド特集リンク集

【番外編】横浜サウンド特集リンク集

横濱デパート物語

横濱デパート物語


●三越→株式会社三越伊勢丹ホールディングス
●大丸→J.フロントリテイリンググループ
●伊勢丹→株式会社三越伊勢丹ホールディングス
●岡田屋(現横浜岡田屋)
●ピアゴイセザキ店
横濱デパート物語(MATSUYA編)

横濱デパート物語(MATSUYA編)

有限責任横浜船渠会社 設立

有限責任横浜船渠会社 設立

No.283 10月9日 (火)三角菱のちから

No.283 10月9日 (火)三角菱のちから

No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク

No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク


日本郵船

横浜製自動車 雑話(改訂)

横浜製自動車 雑話(改訂)


フォード

第915話 【海岸通の風景】クラブ・ホテル

第915話 【海岸通の風景】クラブ・ホテル


海岸通りのホテル群

1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」

1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」


東急ホテル

第855話 1983年(昭和58年)7月21日二俣川

第855話 1983年(昭和58年)7月21日二俣川

第857話<横浜絵葉書>の謎解き 大日本水産会

第857話<横浜絵葉書>の謎解き 大日本水産会

第829話 1936年(昭和11年)6月23日日本製鋼横浜製作所JSW

第829話 1936年(昭和11年)6月23日日本製鋼横浜製作所JSW

【横浜の橋】№9 天神橋(堀割川)

【横浜の橋】№9 天神橋(堀割川)


日本ピチュマルス株式会社

 

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11月 7

第916話【横浜点と線】カーティスという人間

1,000話に向けてエンジン掛けて
新しい発見はありませんが、調査資料の整理を兼ねて紹介します。
ハムとカーティス
今や有名なのであらためて紹介でもありませんが、
横浜市戸塚区で「鎌倉ハム」が誕生したという<トリビア>があります。戸塚エリアがかつて<鎌倉郡戸塚村>だった時代にハム生産が始まったことから”鎌倉ハム”ブランドが誕生しました。
ところがこの「鎌倉ハム」をめぐる諸説は、かなり複雑で真相は未だ<藪>の中といえる部分があり、ことは鎌倉(戸塚)だけにとどまらずブランドを巡るレシピ騒動も加わって複雑怪奇なものなってしまいました。
「横浜もののはじめ考(第三版)」でも諸説を示すだけで解明には至っていません。
戸塚区史では「鎌倉ハムの誕生」を第五章第一節を使って解説しています。
前述の「もののはじめ」その他の資料と併せてアウトラインを紹介しましょう。
ハム製造は戸塚地域で近代産業移入のトップを切り、始まりました。
欧米の香りがするハム製造、「鎌倉ハム」誕生は
「カーティスなる英国人が戸塚でホテルを経営し同時に養豚場を開設してハムやベーコンを製造販売したことに始まります。」
伝聞によると<カーティスは製造方法を門外不出、誰にも教えることをしなかったそうです>その後、ある理由※で複数の日本人が門外不出のレシピを継承して現在に至っています。
※火災の恩義説、レシピ漏洩説など
日本初のハムづくりかどうかに関しては諸説ありますが食肉としてのハム量産化は<鎌倉ハム>が日本初で間違い無さそうです。幕末から明治にかけて、初めて<トライ>した事例は数々あり、そこで<元祖騒動>が起こります。横浜の<もの・ことのはじめ>は開港場に於いて事業化の草分けとして存在価値があるのではないでしょうか。

東海道戸塚宿は、江戸時代街道の宿場町として賑わいました。
開港後、幕末から明治初頭にかけて外国人の行動が制限されるなかでも、西へ十里の範囲での休憩点として、また解除後も箱根や富士山詣での中継地点として<戸塚宿>は外国人の利用度が高い街に変身していきます。
ハム製造のウィリアム・カーティスと関係のあった同じ英国のコブ商会、
幕末、慶応三年(1867)には乗合馬車の営業を始め、横浜〜江戸築地間を2時間ほどで結びます。その後、外国人の行動が自由になった明治に入りコブ商会は横浜〜小田原(箱根)ルートも開拓します。多くの外国人が東海道線では直接箱根に行くことができなかった(国府津・御殿場経由)ため、面倒のない馬車を利用したそうです。この事業にカーティスも関係し彼の拠点だった戸塚宿はちょうど良い宿泊(中継)ポイントと考えたのでしょう。

wikipwdiaでは
「鎌倉ハム(かまくらはむ)は食肉加工品であるハムのブランドの一つ。複数の業者が製造販売しており、「日本ハム」や「伊藤ハム」、「プリマハム」のような一企業に属する単独銘柄ではない。
1874年(明治7年)、イギリス人技師ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、横浜で外国人相手に販売を行う。1876年(明治10年)上柏尾村の戸塚街道に面した場所に観光ホテル「白馬亭」を開業。敷地内でハム・ソーセージや牛乳、バター、ケチャップなどの製造を行い、主に横浜居留地の外国人向けに販売した。」
wikipwdiaでは1874年(明治7年)とありますが、
●カーティスがイギリス人技師と言う表現は正確ではありません。
また、戸塚での製造開始年代は1876年(明治9年)ごろが妥当のようです。
“観光ホテル「白馬亭」を開業”も疑問が残るところです。

1907年(明治40年)東京資本の「日本ハム製造㈱」が、
一方「鎌倉ハム製造会社」の名で別の東京資本の会社が設立されます。
そこに元々の戸塚村で製造しているメンバーが本家は我々だと主張し競合が始まり、結局新会社も元々から製造しているメンバーが後継を守り、現在に至っています。

ここで終わろうとしたところ、
別のテーマで「横浜居留地のホテル」について調べている中で、
1876年(明治9年)居留地61番に「カーティス・ホテル(Curtis’Hotel)」を開業、という資料が飛び込んできました。
カーティス(William Curtis)は1864年(元治元年)に来日、元々、P&O(Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)の客船係の経験を持っていた人物で、横浜でホテルビジネスを目指し到着早々居留地86番の「ロイヤルブリティッシュホテル」を譲り受け「コマーシャルホテル」としてオープンする際の経営者となったとありました。
明治期のホテル経営は実力(経営力)の他に<運>が必要でした。開港以降、多くの洋館、ホテルが登場しますが、没落のキッカケは火事でした。
1871年(明治4年)「コマーシャルホテル」も火災で焼失します。
ところが、カーティスが違ったのは、ホテル事業のスクラップ&ビルドの素早さ。「コマーシャルホテル」経営と並行して
1868年(明治元年)の夏には居留地81番に「インターナショナルホテル」を開業していて、火事で「コマーシャルホテル」を失いつつも立ち直る基盤を持っていました。
1874年(明治七年)6月末に「インターナショナルホテル」を売却、7月10日には居留地44番の「ジャパン・ホテル」を買収するなど投機ビジネスとしてホテル経営にあたったようです。
カーティスが戸塚に開業したホテル「白馬亭」は順調に業績を伸ばしますが、それまでに、横浜で手がけてきたホテルビジネスは
「コマーシャルホテル」
「インターナショナルホテル」
「ジャパンホテル」
「カーティスホテル」
「ザ・コマーシャル」
と複数に及びますが、どれも本腰を入れての経営ではなく、ホテルブームの横浜で投機目的だったようです。
前述の「コブ商会」にも参画し、戸塚宿では日本人の妻を持ち
1892年(明治二十五年)ごろには本町通りに戸塚の<肉>を出すレストランも出店します。彼カーティスのその後の足取りは不明ですが、恐らく戸塚の地で亡くなったのではないでしょうか。家族とともに海外へ出た!という説も考えられないこともありませんが、
ハム製造のレシピだけで簡単に事業化が進むことは難しく、短い期間ですが指導に当たったと考えたいところです。
後継者の日本人たちはそれぞれ明治二十年代から三十年代に肉加工業を始め独自のハムやソーセージづくりの道を歩み始めます。
戸塚には
他にも明治十年代に英国人のポーンスフォトが「シェイクスピア・イン」という簡易旅館を開業し、ここでもカーティス農場のハムが珍重されたと戸塚区史にも記述されていてここから西洋ハムが広まっていったことは間違いありません。

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11月 7

【番外編】戦後の横浜を読む(№917)

横浜の戦後も遠くなりつつあります。
占領時代は特に横浜の戦後を語る上で欠かせない時間です。関内外、周辺の工場や軍事施設が空襲を受け、捕虜収容所にも被害がありました。
第847話 1945年(昭和20年)7月13日「海芝浦駅」空爆

No.122 5月1日 ハイデルベルク・ヘンリーと呼ばれた男

ここに戦後横浜の断片を知るノンフィクション・エッセイを何冊か紹介します。
私が手に入れた範囲内のリストアップなのでまだまだ色々ありますが、中々読み応えのある内容です。
下記の書籍、ほとんど絶版のようです。図書館か古書店で探して下さい。

●港の見える丘物語 マダム篠田の家
〜YOKOHAMA1945-50/赤塚 行雄/第三文明社
昭和後期から平成時代の評論家として文芸から漫画、犯罪などの社会風俗まで、多岐にわたり評論活動を行い大学でも教鞭をとった。昭和5年生まれ横浜出身。
GHQ横浜進駐時代の裏話が詳細に語られています。

港の見える丘物語

●馬頚楼雑記
〜グラスごしにみたヨコハマ(1984年)/牧野 イサオ/有隣堂
知る人ぞ知る関内にあったバーであり画廊だったホースネック(馬頚楼)のオーナーが残したスケッチや写真、メモ等をまとめたもの。場所は関内エリアですが、野毛の入口吉田町のことにも触れています。カウンター越しのクールさが当時を知る上で重みがあります。

馬頚楼雑記

●横浜ジャズ物語 「ちぐさ」の50年(1985年)
吉田衛/著 神奈川新聞社
野毛の戦後を知るにはまずこの一冊から。野毛論の基本教科書といっても良い一冊です。新聞社連載がキッカケとなったので、良く編集されています。

横浜ジャズ物語

●はだかのデラシネ
〜横浜・ドヤ街・生きざまの記録 (1983年)/中田 志郎/マルジュ社
私が寿ドヤ街のことを調べる時に最初に手にした一冊。野毛の戦後混乱期を「麻薬相談員」の立場で語った秀作。

はだかのデラシネ

DOYA!ことぶきの町は。
●『聞き書き横濱物語 Yokohama story 1945-1965』松葉好市/
小田豊二/ホーム社
松葉好市さんは最近亡くなられたと聞きます。昭和11年真金町遊郭生まれ、椎名巌さん(桂歌丸)と同級生。10代の多感な時期を猥雑だった繁華街に育ちます。野毛のキャバレー「チャイナタウン」の支配人としてこのエリアの生き証人として語ったことをまとめた力作。野毛形成史の価値ある一級資料。

聞き書き横濱物語

●野毛ストーリー 大谷一郎 著 神奈川サンケイ新聞社 1986年
野毛をネジロに飲みに返ってくる立場からこの街を描いたエッセイ。これも新聞連載から一冊の本になったもの。バブルが始まる直前の野毛が描かれています。巻頭の写真、文中に描かれた<挿絵>が当時の様子を知る良い資料となっています。

野毛ストーリー

●天使はブルースを歌う
〜横浜アウトサイド・ストーリー(1999年9月)/山崎 洋子/毎日新聞社
根岸線山手駅の裏側に広がる「根岸外国人墓地」にまつわる史実を追い求めた力作で、そのストーリー展開はまさにサスペンデッド。改めて戦後の横浜を考え直した一冊です。

天使はブルースを歌う

Google Kindle版があるのでタブレットをお持ちの方は手軽に読めます。

●やけあと闇市野毛の陽だまり
─新米警官がみた横浜野毛の人びと(2015年12月)/伊奈 正司、伊奈 正人/ハーベス社 ※販売中
昭和20年代、野毛の都橋交番に勤務していた著者が描いたスケッチとコメントを再編集したもの。野毛界隈を別の視点で描いているので興味深い。

やけあと闇市野毛の陽だまり

●横浜「チャブ屋」物語
〜日本のムーランルージュ(1995年3月)/重富 昭夫/センチュリー
少々時代は遡りますが、横浜の風俗史を知る貴重な一冊です。チャブ屋という名を酒豪の先輩から聞いたのは私が横浜で暮らし始めた1990年代始めの頃でした。

横浜「チャブ屋」物語

●消えた横浜娼婦たち
港のマリーの時代を巡って(2009年6月) 檀原照和/著 データハウス

消えた横浜娼婦たち

●寿町・風の痕跡 ドキュメント(1987年1月)
川原衛門/著 田畑書店

寿町・風の痕跡

●女赤ひげドヤ街に純情す 横浜・寿町診療所日記から(1991年7月)
佐伯輝子/著  一光社

女赤ひげドヤ街に純情す

●横浜ストリートライフ(1983年)  佐江衆一/著 新潮社
時代は発行年と同時代に起こった、「横浜浮浪者連続殺傷事件」を追いかけたノンフィクション。
No.43 2月12日 “浮浪者狩り”

横浜ストリートライフ

※平岡正明さん系!は別掲としました。

「ヨコハマB級譚『ハマ野毛』アンソロジー」
「ハマ野毛」(1から6)編集参加者多数
「野毛的 横浜文芸復興」
「長谷川伸はこう読め! メリケン波止場の沓掛時次郎」
「美空ひばり 歌は海を越えて」
「ヨコハマ浄夜」
「横浜中華街謎解き」
「横浜的 芸能都市創成論」

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11月 6

第915話 【海岸通の風景】クラブ・ホテル

かつて、幕末から明治にかけて居留地には外国人経営によるホテルが数多く誕生しては消えて行きました。その中で、明治・大正時代の開港場を代表するホテルが幾つかありましたが、その一つがクラブ・ホテルです。1884年(明治17年)1月11日にそれまであった「横浜ユナイテッド・クラブ」を改造し海岸通、居留地5番Bに「クラブ・ホテル」が開業します。
この年
横浜(第一次市域拡大前)の人口は男性が27,440人、女性が27,039人、合計54,479人
戸数は21,164戸でしたが、国際港として落ち着きを見せてきた横浜港界隈はいわゆる定住人口以上の旅行客や仕事でこの地は賑わっていたようです。
(水と火)
この年に限らず、幕末から明治にかけて、にわかづくりの横浜は<水と火>という皮肉な弱点を持っていました。急激に人口が増えた開港場、いわゆる関内の水不足は深刻で、新鮮な水を供給できない宿泊施設も多く、水道施設の完成が待たれていました。
野毛山から市内に給水が始まったのは、1887年(明治二十年)で市制が始まる直前のことでした。
一方、火といえば火事のことで、明治期の関内は頻繁に起こる火事との戦いでもありました。
居留地のホテル経営、実力に加え<火事に遭わない>運も必要でした。
手元の横浜市年表の明治時代を見るだけでも火災記事は頻出します。
クラブ・ホテルが開業した1884年(明治17年)には
伊勢佐木町1丁目から出火、790戸を焼失する大火事が起こり、後述のように火事との戦いがホテルの運命を変えていきます。
1889年(明治22年)にクラブ・ホテルは法人化され経営者と支配人が区別されるようになります。初年度クラブ・ホテルは大きな収益を上げ、居留地40番に「アネックス」、東京築地に「ホテル・メトロポール」を出すなど、経営は絶好調だったようです。
ところが、1899年(明治32年)に隣接する「横浜ユナイテッド・クラブ」の台所から出火、火は消し止められたものの消火等で客室の改修を余儀なくされます。
1907年(明治40年)には
ボイラー室から出火、一部が焼失します。
さらには
1909年(明治42年)12月26日にストーブから出火しホテルの殆どが焼失、消火による浸水で殆どホテルの機能を失います。
それでも又再建されますが 次第に集客力を失い
1917年(大正6年)に解散します。ちょうど2017年から100年前の出来事でした。

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10月 26

第914話【横浜路上観察】の手引

私は横浜の路上を意識的に観察し始めて10年、
一昨年からは仲間を集めて横浜路上観察学会なるものも始めました。
このブログでは殆ど紹介していなかったので、これも横浜の一風景ということでこのブログに紹介することにしました。
路上には<意図しない>歴史の痕跡があり、
<意識しない>街の記号が存在します。

<意図しない><意識しない>風景に意識を向けると、新しい街の姿が見えてきます。
私達の視覚は不思議なことに、不用な<記号=風景>は視野から消えます。
視線は向いていても見ない風景があるのです。だから日常生活があるのですが、逆に意識するとこれまで見えてこなかった視野に新しい風景や記号が見えてきます。
簡単な例が<マンホール>です。多数の人が往来する足元に存在する<マンホール>を意識して歩いている方はほんの一握りの方です。大多数の方にとって、<マンホール>は道路の一部であり一々区別し認識する必要がありません。
ところが、一度気になり始めると、この世界に引きずり込まれます。
私は横浜市内だけに留めていますが、300種類を越える異なった路上の蓋が公道には設置されているのです。丸型、角型の二種類が基本です。マンホールはその名の通り丸の形で<人孔>と訳されています。人が点検や修理のために地下施設に入ることを想定した路上の蓋のことです。一方「ハンドホール」という路上の蓋もあります。「内部寸法の大小に関係なく、工事完了後の保守作業に際して作業員がその中に入ることを想定しない。(そのため手穴「ハンドホール」と呼ばれるらしい)」
また、単純に雨水などを下水溝に流し込む「雨枡」の蓋もあります。
路上の蓋、デザインで区別すると
横浜市オリジナルの「ハママーク」のついたものと全国規模のインフラ用の共通デザインのものまで多様にあります。
区や、通り、商店街用オリジナルもあれば 今年優勝した「ベイスターズ」バージョンもあります。
デザインで追いかけると
同じ機能のものでも表記文字(字体)が異なったり、大きさや文様が異なっているものも多くあります。
■追いかけない(ハンティングしない)
路上観察の基本として、私は<マンホーラー=マンホールハンター>ではないので、自らマンホールを求めて探し歩くことをしません。もっと欲張りで、路上の他の<痕跡><記号>を歩きながら観察し発見したいからです。
私の場合、まず場所(スタート)を決め、ある一定時間ぶらぶら歩きながら路上を観察していきます。するとどの街でも、沢山の発見があり一定時間を歩くと<痕跡>と<記号>が山のように出てきます。
これが正しい方法ではありません。それぞれ個人流があって当然です。
しっかり目的を持ってハンティングすることも路上観察の楽しみ方の重要な方法です。
関心の無い方や地元の方からの<奇異の目>に晒されることは覚悟しておく必要がありますが。
でも、それを越える<楽しみ>が路上観察にはあるので辞められません。
■風景を見るのではなく見えてくる風景に反応する
禅問答のようですが、あるがままに風景を見るとあるがままに風景は見えてきます。図と地が逆転したり、意識していなかった痕跡が突如登場してくるのです。
路上観察は私に向いている<趣味>だと実感しています。
私はどこでも観察場所を選びません。どこの道でも歩くのが好きです。街なら所を選びません。「ダーツの旅」みたいに何処に行っても、その地域で少なくとも数日はじっくり歩き回ることを愉しむことができます。
先日も、多くの方々と山梨にぶどう狩りに行きました。その時も、時間の合間をヌッて、ぶどう畑の狭間に寂れた神社があることを発見ししばし観察してきました。
特に日本国内の路上観察は
地域性の差異が均質性の延長線上にあるため、私には面白いのかもしれません。
■電柱とバス停
古い地名、地図にない地名を「電柱」と「バス停」によって発見することが多くあります。路上と云いながら、見上げることも多々あります。
電柱には昔二種類あって、電力を伝える「電力柱(でんりょくちゅう)」、そして電話回線をつなぐ「電信柱(でんしんばしら)」です。
かつて、といっても戦前明治・大正期ですが この二種類は管理省庁が異なったこともあり道路の左右をあえて別れて配線されていました。電力と電信が道路左右に別れていた訳です。それが現在では共用していますが、
<柱>によって電力会社管理とNTT管理と異なってるのもわからない風景の一つです。
※見分ける方法もあるのですが   ここでは内緒。
電柱には<座標プレート>が付いていて名前と番号で管理されています。この管理名が電力会社(関東では東電)と電信会社(NTT)ではほぼ異なっています。このプレートを読んでいくのも路上観察のスパイス的楽しみです。
バス停ですが、停留所名は意外に昔の名前を保持しているケースが多く、かつて川だったところに橋名が残っていたり、無くなった施設名も残っていたりもします。
(つづく)

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10月 25

第913話【時代判断の決め手】

昔の風景写真に出会ったとき、いつごろの時代なのか気になります。

展示会や、資料には推定年代が示されていることも多いので史料として役立ちます。
一方で、年代の分からない風景に出会うと、これまた別の意味で興味が湧いてきます。
「この風景は何時だろう?」
時代判断の決め手について紹介しましょう。
時代のランドマークが判るエリアはそれが基準となります。
戦前昭和期の関内エリアは「三塔」が鍵となります。
古い順に
今年150年を迎えた開港記念会館(ジャックの塔)、
1917年(大正6年)に竣工しますが震災で全焼し
1927年(昭和2年)に再建されます。
帝冠式の厳かな佇まいの神奈川県庁「キングの塔」が
1928年(昭和3年)10月31日に竣工します。
そして最後に1934年(昭和9年)3月竣工した
横浜税関の現 本関庁舎(クイーンの塔)を合わせて三塔と呼びます。
港に入ると横浜港にこの3つの塔がシンボルとして見えたそうです。この三塔によって微妙に時期がことなりますので
昭和2・3・9年で順を追うことができます。
今回紹介します風景は
この三塔の時差から税関(クイーンの塔)が見えないようです。
そこから昭和3年〜昭和8年ごろと時期が絞りこむことができます。
横浜関内外の風景は、
関東大震災で建物が大きく変わります。
そして戦災(横浜大空襲)と接収時代を経て
高度成長期となり、オリンピックの頃には人口爆発真っ只中で
横浜は都市基盤整備に日々追われることとなります。
大正から昭和にかけて、震災の被害は大きかったけれど復興に努力する短い時代が横浜にとっては数少ない良き時代だったのかもしれません。

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10月 6

第912話 【市境を歩く】長尾台町あたり

横浜側:長尾台、田谷
鎌倉側:玉縄、岡本
今年の春、市境踏破を目指しました。ほぼ全市境あたりを歩きましたので、第二ステップでは、市境をもう少し探ってみることにしました。
(長尾台)
大船駅西口から柏尾川に沿って上流に向かうと程なく「長尾台」のバス停があります。このあたりで川を背にすると目の前に切り立った高台とその周辺が長尾台です。
中世戦国時代に後北条氏伊勢盛時、後の北条早雲となったに武将によって築かれた玉縄城(たまなわじょう)の出城があった場所とされています。
この長尾台は東と南の方角を見据える良い立地で古くから小城(館)があったことが発掘調査で判っています。平安時代の武将、源義家に従って活躍した長尾次郎の名がこの地名の由来とされています。中世に北条氏の三浦攻めの拠点となった鎌倉玉縄城は、永正9年(1512年)に後北条氏伊勢盛時のちの北条早雲によって築かれます。長尾台は玉縄城の重要な出城で近くを流れる境川支流柏尾川が堀の役割をする絶好の要害の地でした。
現在も長尾台の丘陵部は人里離れた別天地の様相で、横浜に居ることを忘れてしまいそうです。
この長尾台と隣接する田谷の境界にはケモノミチがあり、この道を抜けると玉縄五丁目に出ることができます。
(夢を運ぶ)
この市境にはかつて、モノレールが走っていました。
この話にピンとくるかどうかで一つの世代を測ることができます。夢のように現れ、夢のように消えた「横浜ドリームランド」の消滅要因がこの横浜ドリームランドと大船駅を結ぶ”モノレールドリームランド線”のトラブルでした。モノレールが開通した翌年、1967年(昭和42年)に構造上の欠陥が見つかり早くも運行が休止され、送客できないことでドリームランド閉鎖の致命的要因となります。モノレールを担当した東芝は、責任を認めず、長い裁判となります。
※このドリームランドモノレール事件の裁判過程は実に興味深いのでじっくり読み解いてみたいテーマです。 池井戸潤の「下町ロケット」にも通じる、大手企業の<影>が見えてきます。
掲載の地図に引かれている路線図はかなり乱暴ですが、実際は長尾台・田谷付近の市境に沿って路線が引かれていました。すでに市街化していたこの地域に交通機関を設置する唯一残された空間だったのかもしれません。
(市境)
JR大船駅ホームの下を柏尾川の小派川「砂押川」が流れています。横浜市と鎌倉市の境、市境の決まり方としては一般的な「境の川」です。
「砂押川」が柏尾川に合流し市境も柏尾川に沿って400mほど北(上流)に伸び、柏尾川右岸側、西方向に入り込み長尾台西南の尾根筋が市境となっています。
現在の長尾台は古来「相模国鎌倉郡」で、1889年(明治22年)明治期最大の市町村再編成が行われます。この市町村合併は近世江戸の集落関係に関係なく様々な軋轢を残したまま実行されます。
柏尾川右岸の金井村・田谷村・長尾台村と小雀村が合併し現在の鎌倉市境、横浜市西部のかなりまとまったエリアが長尾村となります。
ところが、1915年(大正4年)に再編が起こます。
“広い長尾村”周辺が解体され、国道(東海道)沿いの小雀村・富士見村・俣野村・長尾村(一部)が大正村に
田谷村・金井村・長尾(台)が明治22年に柏尾川左岸でまとまった豊田村と大正4年に合併し大きな「豊田村」となります。
単純化すれば、川をベースにした農業エリア柏尾川両岸でまとまり、東海道筋経済圏で戸塚宿以南でまとまった新しい自治体を作り直したという構図です。
ただ、長尾(台)村は大船駅に近かったため、早くから大船村への合併を希望していましたが叶いませんでした。
(鉄道の時代)
明治に入り、街道の時代に加え鉄道の時代が始まります。
東海道線 大船駅は
1888年(明治21年)11月1日に開業。当時、駅の正面は西口の観音側でしたので、長尾台村にとっても重要な最寄り駅となっていました。
さらに翌年の1889年(明治22年)6月16日には横須賀線が大船駅〜横須賀駅間で開通し、鎌倉駅・逗子駅・横須賀駅も合わせて開業します。
戸塚町は明治中期以降、工業都市として急速に発展していきます。横浜市が昭和に入り「大横浜」を指向する中、柏尾川沿いの町は大横浜に入るのか、これまでのコミュニティを維持するのか、大きな選択を経て現在の横浜市域が誕生していきます。
改めて境界を歩くと長尾台から玉縄の台地を鎌倉時代、相模のもののふ達が去来した思いを馳せることができるでしょう。

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9月 8

第911話 中世の横浜を理解する(1)

近年、横浜の近世以前が丁寧に解説されるようになってきました。確かに開港一辺倒の横浜史が多い時期もありました。
今年は吉田新田完成350年ということもあり、近世=江戸時代に少し光が当たっています。
さらに時代を遡って中世の横浜は?
横浜市域が武士の時代を迎える頃が中世の始まりですが、調べ始めると知らないことばかりでした。まず、入門ということで、中学生の副読本を読み始めました。これがかなり<難解>というか複雑な関係を簡単に表記しようとしているためか、一読では中々内容が理解できない内容でした。
私の理解力が低下していることも理由にあげられますが、中学生のレベルでもかなりハードルが高いのであなどれません。
私、中世日本の一般的な歴史知識は無く、高校での授業も殆ど記憶にありません。最近、近世史以降は少し学び始めていますが、中世というと真っ暗なのが現状です。
西洋史では<中世>は暗黒なんて言われていた時代があります。それはさておき、横浜市域の中世をざくっとレビューしてみました。
まず、そもそも論から。
ここが私の<困った>ところです。
古代から中世への分岐点(画期)は、律令制の行き詰まりにより武士が力を持った平安末期とするのが一般的のようです。平安末期、院政が始まり「保元・平治の乱」で平清盛が太政大臣に就任し、武家政権が成立したあたりからが中世ということです。
古代から、東国は良馬の生産地でもありました。※

平安時代末期に天皇家と摂関家による家督争いが表面化し実力行使が行われるようになってきました。この実力行使に、源氏・平家の武士団が動員され、地域に生きる豪族・武士団が政権存続に関わるようになりました。ここに東国の地方豪族=武士団が次々と登場するようになります。
横浜市域は武蔵国・相模国にまたがっていますから、「武蔵国武士団」「相模国武士団」が中世の重要登場人物となっていきます。
□五畿七道(ごきしちどう)
古代律令制度の時代にはその後の日本に影響を与えた様々な国家制度が作られますが、中でも地域区分を行うことで、国の政治制度を支えました。
五畿とは「畿内」ともいい、大和、山城、摂津、河内、和泉の五国。
七道とは全国の大きな行政区分で、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道のことです。地域区分により街道も整備され現在もこの七道は<道>としても活きています。以後、鎌倉幕府は「鎌倉道」を整備し、近世・近代に至るまで、国家は道作りの歴史でもありました。
武蔵国武士団は「東山道」に属していましたが、東海道東部、相模国武士団とも大きく関係するようになり人的交流が生まれます。同じ武士団でも
この頃、北関東一帯の有力武士団であったのが秩父一族です。帷子川流域の榛谷氏、鎌倉幕府の有力御家人となった畠山氏の畠山重忠らは横浜市域で活躍した秩父一族です。
□里山の風景
古代から中世にかけて形成された集落が現在の里山集落の原型・原点となっています。河川下流域に大きな集落が生まれるのは近世以降で、中世の集落の殆どが<谷戸><山間地>の村でした。海側の集落では漁業を生業とする漁村も誕生します。
現在の桜木町駅近辺は野毛浦と呼ばれた磯場で、江戸湾人気のマナコ漁が盛んに行われていました。歴史でクローズアップされるのが<戦(いくさ)>ですが、戦の場となるのが集落の拠点と成る山城です。小机城、蒔田城、荏田城、高田城、神奈川城、青木城、佐々木城といった城群が中世には点在していました。といっても戦闘方法が変わる戦国時代以降の城郭ではなく、丘陵を活かした陣地という程度のもので十分だったようです。
中世と近世の分れ目(画期)は検地・刀狩りによる兵農分離といわれています。織田信長・豊臣秀吉が強力に推し進めた兵農分離以前は、戦う農民そして田畑を耕し生産活動を行っていた「もののふ」が軍事力の中心でしたので、田植えの時期や収穫期の<いくさ>は両陣営でなるべく避けたそうです。
中世は下克上「源平合戦」の始まりでもあります。
次回は 横浜を舞台にした<戦い>を眺めてみます。
※京都平安京から遥か離れた<東国>には良馬の生産地として天皇の直轄の<御牧(みまき)>が何箇所かありました。
(2)横浜の戦い  へつづく

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