第942話【謎解き】吉田橋広場

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今年は馬車道150年です。
1867年(慶応3年)に「吉田橋」から関内を通り抜ける広い道路が整備されたことに因みます。
この「吉田橋」から続く<広い通り>は地元の人たちに通称「馬車道」と呼ばれるようになり、その後区画整理を経て現在の「馬車道通り商店街」となりました。 この吉田橋を渡ると伊勢佐木町の繁華街が日枝神社近くまで続きます。
もう一つ
「吉田橋」袂から斜めに「吉田町商店街」が野毛へと続きます。 この吉田橋際に立ってみると、馬車道側に不思議な空間があります。
かつて
「丸井横浜関内店馬車道館」があった場所でした。 1980年(昭和55年)に開店
2000年(平成12年)に閉店しその後高層マンションとなっています。
当時、この広い空間は丸井馬車道の敷地だと思っていましたが、その後丸井が撤退しマンションが建つ計画が公表された時に、この空間が公共の土地であることがわかりちょっと驚いた記憶があります。

一方、伊勢佐木口側は昔、馬車道側より広く長い広場(広い空間)がありましたが今は無くなってしまいました。この広い空間には一時期運河沿いに「警察署」が建ちその後デパートが伊勢佐木のシンボルとなった時代があります。この<不自然な>広場は共に、関内に街路が整備された頃から他の道路とは異なり、誕生しました。なぜ?ここに広場のような空間が存在したのでしょうか?
私の結論から先に紹介します。
吉田橋<関門>あたりはかつて関内外の主要関門であったため、交通量が多く関門周辺に<滞留空間>が自然と出来上がったのだと推理しました。

場所を馬車道側に戻します。
この空間について資料を調べるキッカケとなったのは一枚の写真でした。
最初に紹介しましたように、馬車道側に明治期から現在まで不思議な広場が存在していたことは、過去の風景写真によって明らかです。明治期の地図でも明確にこの空間が示されています。慣れとは恐ろしいもので、何度となく見ていたはずの<この空間>の不自然さに全く気が付かなかったのです。

偶然入手したこの一枚の写真、裏面のメモから1953年(昭和28年)頃に撮影されたと思われます。
街路樹のエッジに白い像が建っています。ロダンの考える人をイメージさせる腕を曲げ顎を支えているかのようなポーズです。
戦前の風景には見当たりません。
終戦直後の米軍進駐時の写真にもありませんでした。
戦後復興期に短期間設置されたようです。
何故短期間かというと、1958年(昭和33年)5月8日の写真にはこの白い像が別のものに変わっていたからです。この年、開港百年祭が行われ、その時の様子が広瀬始親(ひろせもとちか)氏が記録していた写真集に収められていました。ここにはトーテムポールようなものが設置されています。
再度、白い像のある写真を拡大してみると背後に石燈籠のようなものも二基設置されています。
馬車道の老舗で伺っても記憶に無いとのこと。
まだ この謎は解けていません。

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第941話【路上観察】よこはま雨枡10景

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横浜限定の路上観察を楽しんでいます。
路上観察には様々なテーマがありますが、
道路の<蓋>探しは横浜が最高!と勝手に思っています。
路上の蓋、一般的には丸型と角型があります。

角型消火栓

NTTハンドホール

港湾局丸型

昔は地下設備に人が入り点検や修理を行うための<穴>を人孔=マンホールと言いました。今もマンホールという単語は使われますが、路上のインフラ用の蓋全般をマンホールと言っている場合もあります。
人が入ることを想定していない<蓋>はマンホールに対しハンドホールと呼ばれ多くは<角型>です。
では何故<人孔>人が出入りする穴の蓋は丸いのか?
ホールキャップが丸いと作業中間違ってキャップが穴の中に落ちることが無いからです。
これ 飲みネタ 朝礼ネタにナリませんかね!

路上の蓋で気になるとすぐに発見できるのが雨水桝です。
市内至る所にある雨水枡には「市章ハマ菱」がデザインされています。

市章

雨水枡は一般道路に設置されています。
<雨水>を地下の下水溝の集めるための装置で、都市生活には欠かせないインフラ部品です。この穴に上を人や車が通れる安全上の蓋をします。これを<雨水桝>といいます。
横浜オリジナル雨水枡を紹介しましょう。
上の二種類、同じように見えますが、その違いわかりますか?枠の太さが異なります。上は細く下よりも古いバージョンだと思われます。

上の二種類は横の支棒が三本と四本で、大きさも異なります。

雨水桝色々あるでしょ!

路上観察横浜学(マンホール編)

路上観察横浜学(マンホール編)

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第940話【最強の市長】有吉 忠一

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現在、横浜市長は
第32代、20人目の林文子氏が就任しています。(2009年(平成21年)8月30日〜)
戦前は13代まで官選市長が市政を担当しました。
戦後は選挙で選ばれています。
戦前戦後を通じて 任期満了か、途中辞任によって市長交替となりました。
例外は在任中に亡くなれた市長が2名
16代「平沼亮三」氏と24代「細郷道一」氏でした。
(最強の市長は誰か?)
最強という表現が適切かどうかわかりませんが
ここに紹介する第10代横浜市長「有吉忠一」は横浜市政史に残る
“最強”の市長といえるでしょう。
歴代市長を評価するには様々な視点から市政の結果を分析していかなければなりません。政策実行力・問題解決力・政治的決断力 他いろいろ指標がありますが
有吉忠一は
「数多くの業績を残した昭和初期の「不世出」の市長」と言われています。
“「不世出」の市長”というのは中々の評価ですね。
横浜市史上最大級の難問、震災復興に取り組んだ不屈の市長です。
ここに当時の有吉市長を知ることができる一枚の写真があります。
たまたま海外の写真オークションで手に入れたものです。

生糸検査所の有吉忠一と秩父宮

生糸検査所屋上から「横浜復興」を秩父宮に説明する有吉市長

1927年(昭和2年)6月2日(開港記念日)
この日、関東大震災から5年
<復興>を市内外に宣言する重要なセレモニーとして「大横浜建設記念式」を開催しました。式典には秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)を迎え、望月圭介逓信大臣を始め、1,557人もの市内外の名士が集まり盛大に挙行されました。
秩父宮は式典に参列する前、市長有吉忠一により復興状況の説明を受けます。
写真はこの時の一コマです。

(関東大震災)

震災被災(焼失)エリア

(震災復興)

秩父宮視察が行われた生糸検査所

震災復興のシンボルとなった商工奨励館

有吉忠一の簡単な経歴を紹介しましょう。
1873年(明治6年)
京都府生まれ。
第三高等中学校、帝国大学法科大学法律学科(現在の東京大学)
1896年(明治29年)
内務省入省。
1897年(明治30年)
島根県 参事官
兵庫県 参事官
1901年(明治34年)
内務省 参事官
1908年(明治41年)3月
第11代 千葉県知事 就任。
知事時代、千葉県営軽便鉄道(後の東武野田線の一部)の開通を手がける。
1910年(明治43年)6月14日
韓国統監府総務長官 就任。
朝鮮総督府総務部長官。(〜1911年(明治44年)3月13日)
1911年(明治44年)3月13日
第13代 宮崎県知事 就任。
知事時代 宮崎県営鉄道を建設。飫肥線の敷設、日本初の学究的発掘調査となった西都原古墳群の発掘調査を行う。
1915年(大正4年)
第九代 神奈川県知事 就任。
自治時代 多摩川の改修を指示し川崎市中原区に「有吉堤」の地名が残る。
関東学院の開設に助力。
同年11月10日
大礼記念章
1919年(大正8年)4月18日
第15代 第15代兵庫県知事 就任。
1918年(大正7年)6月29日
勲二等瑞宝章
1922年(大正11年)6月16日 退任
1922年(大正11年)6月12日 ※
「朝鮮総督府政務総監」に就任(〜1924年7月4日)。
※知事退任日と総監就任日に重なりがありますが 資料のママ掲載します。

有吉は軍事権を除く行政・立法・司法の実務を統括し、在任中、朝鮮総督府の日本人高級官僚、特に「生え抜き官僚」との軋轢に加え、関東大震災時の“朝鮮人虐殺”に反発する朝鮮での暴動等の真ただ中でかなり苦労します。

1924年(大正13年)7月4日
その任を解かれ東京に戻ります。
1925年(大正14年)5月7日
第10代横浜市長に就任。
※推薦者 原富太郎、中村房次郎、井坂孝ら
1930年(昭和5年)2月10日
正式に辞意を表明します。
「予算案さえつくれば、その決定は予算を実行する後任市長と市会の自由裁量によるべき…」との一言を残し、
同年4月 貴族院議員 勅選。
1930年(昭和6年)2月26日
昭和6年度の予算が成立する前に辞職。
1933年(昭和8年)
第7代 横浜商工会議所会頭。(〜1942年(昭和17年))

■有吉忠一の横浜
米貨公債で<震災復興資金>を集め、早期復興に努め 大きな成果をあげました。
「大横浜建設」の三大方針
・横浜港拡張
・市営埋立(臨海工業地帯の建設)
・市域拡張
生糸貿易に大きく依存してきた横浜市の体質を脱却して工業化を推進するために臨海部に大規模な工業地帯を建設し企業を誘致し港湾機能を拡充。
広大な後背地の確保(市域拡大)
市長時代から退任後
横浜商工会議所会頭時代精力的に臨んだのが
「東京湾拡張問題」=東京港開港要求でした。
横浜にとって東京開港は死活問題。東京にとっても東京開港を渇望していました。この問題はすでに明治期からくすぶっていた課題で 震災後は政財界を巻き込んでの大問題になっていました。
有吉は横浜・神奈川の意見を取りまとめ東京と横浜との軋轢解消を推進しました。
首都圏の港湾経済を考える上で、都市間で争っている時代ではない!
という視点から 国と東京市との合意を求め奔走します。
最終的には横浜復興で独自に米貨公債により調達した復興資金の残債半分を国に肩代わりしてもらう代わりに東京開港を制限付きで認めるという結論をまとめます。
「(横浜復興に借りた米貨公債を政府に肩代わり叶えば)東京の希望に反対しない事になった、併し満支関係の船は兎に角、英米の大船は東京には寄港出来ぬ、東京港は水深二十五尺、六七千噸級内せいぜい一万噸級を限定とする実情である、夫はさてをき横浜市民も此解決で初めて積極的に振興の業にあたる事が出来るようになったのである、之は昭和十五年の事であるが、この時市税総額八百七十万円で、市の公債費は総額八百九十万円、市税の全額を挙げても尚ほかつ足らぬという窮境であったのである(中略)ああこれで横浜市民のために、震災のあとかたづけが出来たと、肩の荷をおろした感で、大変本懐に思った事である。(有吉忠一 経歴抄)」
◯有吉忠一関係ブログ
■震災復興 横浜拡大
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命


1929年(昭和4年)8月19日に飛行船ツェッペリン伯爵号は
何故 急遽計画を変更して横浜上空に現れたのか!
第818話【横浜2345】大横浜の時代

第818話【横浜2345】大横浜の時代 


No.464 昭和5年頃の横浜

No.464 昭和5年頃の横浜


No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド

No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド


No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

■市長エピソード
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更


No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?


■県知事時代
No.445 「有吉堤」

No.445 「有吉堤」


No.443 岸辺のアル闘い

No.443 岸辺のアル闘い

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第939話【番外編】横浜のクリスマス

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以前、”クリスマスツリー”の歴史に関して少し調べたことがあります。
日本でクリスマスツリーが飾られたのはいつ頃か?
調べると意外に難しく、ネット上の出典なしネタが多くあり、本腰を入れて出典を調べる必要に迫られましたが、諦めました(笑)。
簡単にまとめると
クリスマスツリーのルーツは諸説ありドイツから始まったのが有力でした。

1.ボニファチウス説
「8世紀のドイツ、樫の木を崇拝する人たちが子どもを生け贄に捧げていました。ドイツの使徒と呼ばれた聖ボニファチウスはこの風習を止めさせるためにオークを切り倒すとき、奇跡が起こりキリスト教の神の力が彼らの神よりも強力であることを示してイエスキリストこそ真の神であることを説いたことに由来。
2.三位一体=三角=樅の木
キリストの三位一体の象徴
3.ユール原型説
北欧に住んでいた古代ゲルマン民族の「ユール」という冬至の祭で使われていた樅の木
は冬でも葉が枯れない生命の象徴。
4.「旧約聖書」の創世記の舞台劇
「中世のドイツでは、イヴに教会の前でキリスト降誕祭の序幕として、楽園におけるアダムとイヴの堕罪の物語を演じる神秘劇が行われていた。」
この<禁断の果実>がなる木を舞台に立てたことに由来。

キリスト教伝来の頃はおそらくツリーは無く江戸時代には長崎の出島ではオランダ商人によって密かに「唐人冬至」を模した「阿蘭陀冬至」としてクリスマスを祝ったそうです。 
時代を近代からとすると幾つか文献がでてきました。
(ドイツ流)
1860年に通商条約締結のために来日していたプロイセン王国使節であったオイレンブルク一行が公館で飾った記録が残っています。

オイレンブルク一行

残念ながら横浜ではなく江戸の赤羽根のプロイセン王国公館でのことでした。
「随員の中の二、三人のクリスマスの準備を依頼した。何よりもクリスマスツリーを立てることが先決だったが、日本で木を一本切り倒すのはいつでも難しいことであった。しかも本当の樅の木は江戸にめったにない。それでも木はぜひとも必要である。(中略)ついに馬にまたがり、何マイルも先まで乗り回してありとあらゆる植木屋を探してやっとすばらしい一本をみつけてきたのである。」
これからが大変だったようで、準備の様子も細かく描写されていますが略します。
「準備そのものがまるで祝典だった。五人の水兵がそのために働いた。(略)すばらしいクリスマスツリーは天井まで届くほどで、オレンジや梨がたくさんそれにぶるさがっていた。」
※冬に梨がたくさんあった?のはいささか疑問ですが
当時、クリスマスツリーで飾り、抽選会などを行いお菓子を振る舞うドイツ流スタイルはゲストとして招かれた英国の将軍ホープ・グラント、領事オールコック、駐日アメリカ総領事館のヒュースケン他のゲスト達も驚きの様子が記されていました。
「オイレンブルク一日本遠征記」より
では、日本人によってクリスマスパーティが行われたのは何時ごろかというと、
1874年(明治7年)に実業家の原胤昭(たねあき)が築地にあったカロザースの妻ジュリアの女学校で開かれたクリスマスパーティーで日本最初のサンタクロースが登場、飾ったのが最初と言われています。
横浜が舞台となったクリスマスツリーの登場は、
1886(明治19)年12月7日
現在クリスマスツリーの日となっている12月7日のこの日
明治屋が横浜で外国人船員向けにお店でクリスマスツリーを飾りつけたそうです。
この日が1886年が日本初の「クリスマスツリー」だ とする説もあるようです。

本町通り明治屋

1900年(明治33年)に明治屋が東京銀座に進出すると、銀座のお店でもクリスマス飾りが広く行われるようになり、広く商店などのデコレーションに繋がったようです。
少し遡ると
1868年(慶応4年)に出された運上所の取り決めの中で、
開港場の休日が、4月7日、5月15日、7月7日、7月15日、8月1日、9月9日の他に、西暦の日曜日そして クリスマスの日が設定されました。
1879年(明治12年)12月には
海岸教会で日本人初のクリスマスの儀式が行われたという記録が横浜市史稿にあり、いち早く教会が建てられた横浜でも”クリスマスミサ”が積極的に行われたようです。
さらに横浜歴史年表でひろった<クリスマス>
1951年(昭和26年)12月19日
日米合同でクリスマス・デコレーションのコンクールを開催する。
1970年(昭和45年)12月23日
横浜公園体育館で市民クリスマスフォークダンス開催。

No.413 あるドイツ人の見た横浜

No.413 あるドイツ人の見た横浜


【番外編】今日はクリスマスツリーの日?

【番外編】今日はクリスマスツリーの日?


<クリスマス風景 クリッピング>

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第938話【2017・年末ネタ】

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毎年12月師走ともなると、交響曲第九の公演とドラマ忠臣蔵が定番行事でしたが、近年時代劇不振で、再放送ばかりのようです。
「交響曲第九の公演」
「忠臣蔵=赤穂事件」
共に 横浜とも関係があるので年末ネタとして紹介しておきましょう。
「交響曲第九の公演」
https://www.youtube.com/watch?v=F0j2gPgRc1s

ベートーベン作曲の有名な交響曲で、ご当地ドイツのライプツィヒで年末大晦日公演が1918年に名門オーケストラであるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって始まります。日本では戦前に公演は行われますが、年末恒例となったのは戦後のことです。戦前のエピソードとしては
1918年(大正7年)6月1日
日本で最初に「第九」が演奏されたのが徳島県の鳴門市(当時は板東町)で、ここにあったドイツ兵の俘虜(捕虜)収容所でのことでした。当時は第一次世界大戦の真っ最中で、連合国側として参戦していた日本とは敵国でした。(第一次世界大戦〜1918年11月11日終戦)
時は流れ、戦後まもなくの
1947年(昭和22年)12月
日本交響楽団(現NHK交響楽団)がレオニード・クロイツァー指揮で9、10、13日の3夜第9の演奏会を開催して多くの観客を集めたのがキッカケといわれています。
その後、
1950年(昭和25年)12月17日
アマチュア・オーケストラとして本邦初めてこの第九を公演したのが横浜交響楽団でした。場所は横浜公園脇にあった「フライヤージム」です。その後、横浜交響楽団の年末恒例演奏会の目玉となりました。
ちなみに、日本交響楽団は1947年(昭和22年)単発公演で
初めて年末恒例としたのは横浜交響楽団???(裏とってません)かもしれません。
「忠臣蔵=赤穂事件」
冒頭にも書きましたが、年の瀬は「忠臣蔵」という時代がありました。
歴史学的には「赤穂事件」として、
五万石の大名がお家断絶、身は切腹、城は公収、数千に及ぶ家臣とその家族を路頭に迷った事件です。
江戸時代、18世紀初頭の元禄年間に播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩(ながのり)が江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしひさ)に対し<傷害事件>を起こしたというものです。
主君浅野内匠頭長矩は切腹、その後この事件に端を発し家臣の大石内蔵助良雄以下47人が長期計画を練り最終的に
元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜
本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央をはじめ、小林央通、鳥居正次、清水義久らを殺害します。
何が原因だったのか、その後どのように仇討ち計画が組まれたのか?
史実としては不明な点が多かったが故に、後世の作家たちが様々な物語を構築して、幕末から現在に至るまで<国民的ドラマ?>となりました。
「忠臣蔵」で一躍悪役となったのが吉良上野介義央です。
(吉良家)
吉良家は足利氏の一族で、後北条氏とも姻戚関係にあります。
足利義氏(足利家3代目当主)の三人の息子がそれぞれの道を歩みます。
泰氏(三男ですが本妻の子)→足利家→足利尊氏
義継(長男)→奥州吉良氏→蒔田吉良氏
長氏(次男)→西条吉良氏→上野介・今川家
長男であった義継の流れが奥州吉良家として関東で勢力を伸ばし、中世後期の室町時代応永年間(1394〜1427)に武蔵世田谷(東京都)に本拠を置き南は蒔田(横浜市南区)に居城を持つようになります。この城は発掘調査や歴史資料が少なく、いわば”まぼろしの城”とも言われていますが、明治以降あまり周辺環境が変わっていない往時の地形をおぼろげながら感じ取ることができます。

戦前の蒔田城周辺

蒔田の居城は吉良頼康によって築城され
「蒔田御所」と呼ばれるほどその威光を示しました。
現在は「青山学院横浜英和中学校高等学校」の敷地となっています。
1880年(明治13年) ブリテン女学校として設立
1886年(明治19年) 横浜英和女学校に改称
1916年(大正5年) 横浜英和女学校が現在地に移転
1939年(昭和14年) 成美学園に名称変更
1996年(平成8年) 横浜英和学院に改称
2016年(平成28年) 青山学院横浜英和中学校高等学校に改称
校庭から当時のツボの欠片が出土し学内に展示されているそうです。(見ていません)
その後の吉良家
1590年(天正18年)豊臣秀吉が小田原征伐を行い北条一族の居城、小田原城が落城します。これによって北条氏は滅ぶことになります。これにともない蒔田城も廃城になって静かに明治まで眠っていました。
吉良家はその後、徳川家の家臣となり明治期まで続きます。歴史の表舞台にはあまり登場しませんが、横浜と世田谷を、中世と現在を結ぶ歴史の貴重な<糸口>です。

No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー

No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー


1950年(昭和25年)12月17日
横浜交響楽団がベートーベンの第九演奏会を開催します。

(図版は追って追記します)

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第937話【市境を歩く】川崎市境0その2

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■今回は川崎・横浜市境パート2
かつての日本橋を起点に横浜港に至る国道一号線、現在の国道15号線を越え
いよいいよ「京浜運河」に入ります。国道15号線の市境には、恐らく大正時代に改修された時に建てられた<東海道>の道標がひっそり建っています。国道を越え、平安町(横浜側)と池田町(川崎側)を進み、市境にある京町小学校脇から南下、このあたりはかつて大きな船溜まりがあり、「京浜運河」として日本鋼管他近隣の産業運搬船が利用していました。
現在、河口域の白石橋まで暗渠化しなごりは<電信柱>に残されています。
京浜運河の歴史は古く、
1910年(明治43年)に京浜運河の発起人会が作られ
1917年(大正6年)に京浜運河株式会社が設立されます。
代表は川崎の工業化を推進した浅野総一朗で、周辺埋立に伴う河川や工場用水の排水路及び運搬水路として整備されました。 排水路でもあったため周辺の海苔養殖事業者からは湾岸汚染を抗議する運動も起こりましたが1936年(昭和11年)に「京浜運河」埋立計画が発表されるなか、
内陸部の京浜運河は暗渠化し、
現在は、遊歩道(京町緑地)として整備されています。
途中には横浜市と川崎市が共同で設置した市境モニュメントがあります。
かつて運河だった遊歩道(京町緑道)の両側は工場が密集していましたが、移転・廃業等の跡地は大型のマンションとなり、住宅地へと変貌し続けているようです。
京浜運河は、途中大東町から横浜市側になり末広橋近くで開渠化し旭運河となります。
高速道路「横羽線」と下を走る「産業道路」の通るあたりには
「汐入」「寛政」「新田」といった江戸時代の海岸線を想像させる名前が残っています。
横浜市鶴見区寛政町の寛政は江戸時代の寛政年間に湾岸干拓が完成し年貢を収めることができたことからこの名が付いたといいます。
川崎市川崎区田辺新田は
田辺家により天保年間に開拓が行われ、このエリアのあざなとなり現在の地名になった場所です。市境の橋は白石橋。
市境に架かる「白石橋」から海へ続く「境運河」の先は大工場地帯となっています。市境のゴールは湾岸沖です。この先簡単に市境は歩くことができませんので
市境歩きはこれにて終了。

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第936話【市境を歩く】川崎市境0

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街には国境ほどではありませんが行政の境界があります。
地域民にとって境界は別段関係ありませんが時にこの境界が市民生活に影響してきます。
街は何故ここに境界を設定したのか、
謎解きをしながら市境を歩くと、横浜が見えてきます!
市境の基本はおおよそ地勢の影響を受けています。
・川筋
(主に境川あたり)
・尾根筋
(北部と南部)
※隣接自治体は
川崎市・東京都町田市・大和市・藤沢市・鎌倉市・逗子市・横須賀市

■今回は川崎・横浜市境
スタートは尻手駅です。

尻手駅

尻手

ここから川崎市境を湾岸まで南下します。
横浜と隣接する自治体は川崎市です。
ちょっと余談から、
市境際のJR南武線「尻手」駅は川崎市で、
お隣の「矢向」駅は横浜市に位置しています。
横浜市域に南武線の駅があることちょっと意外ですね。
■拡張競争
横浜市と川崎市の<領土獲得>はドラマのような歴史があります。
元々、明治期までは広く橘樹郡でした。その後川崎市と横浜市が拡大するにつれて周辺村域を合併し市域拡大を繰り返し最終的には二分します。
今回歩くのは
橘樹郡田島村→1927年(昭和2年)4月1日に川崎市
橘樹郡町田村(潮田町)→1927年(昭和2年)4月1日に横浜市
この境です。
前述の通り、JR南武線「尻手駅」は横浜市に食い込むように<川崎市>です。
資料を精査していないので憶測の域をでませんが、
南武線尻手駅の開業は
1927年(昭和2年)3月9日で、
同年の
1927年(昭和2年)4月1日に市境が確定します。

昭和18年尻手駅界隈

駅をめぐってもやり取りがあったとしても不思議ではないでしょう。
鉄道は地域にとっても重要なインフラですので、駅際の<境>を正確に線引していくなかで、我が市に駅を!という作用もあったと思います。
尻手駅の<尻手>の名も
橘樹郡鶴見町大字市場字尻手の”尻手”から採っていますので、横浜市に編入された市場村・矢向村の字名でした。<尻手>命名にも当時はいろいろあったのかもしれません。
<市境>も<いさかい>のネタであることは間違いありません。
川崎市とは大騒動になった日吉村顛末もありました。
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発

No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発


尻手あたりから、海岸にかけてかつて<用水路>だったので、正確には川筋境に市境が生まれたといえるでしょう。古い地図では尻手駅脇に川筋があり最終的には京浜運河に流れ込んでいた(いる?)ようです。(上図)
尻手近辺にはいたるところに水路や池、沼地を確認することができます。
今回の市境旅もある意味
<暗渠旅>といえるでしょう。
尻手駅界隈は東西で表情が変わります。東側は川崎市幸区、駅前の西口通り東方向に900mで、川崎駅に出ます。川崎駅西口は東芝などの企業が集中するエリアでしたが、西口ラゾーナなどが登場し一気に商業集積地に変貌しました。
一方、西エリアは南武線に並行してJR貨物線(現在横須賀線)と鶴見川があり、住宅地と中小事業所が密集する地域です。
南武線(本線・支線)に沿って流れていた用水路に沿って市域となっています。
南武線本線と支線、東海道本線の挟まれた三角地帯には
川崎市堤根処理センター(川崎市堤根処理センター発電所)があり、ゴミ焼却エネルギーの再利用が図られています。予熱は隣接する「ヨネッティー堤根」に供給されています。市境はJR東海道(並木踏切)を越えます。用水路は全て暗渠化していて、一部名残が残っているだけです。さらに南下し京浜急行を越えるあたりで少し市境が複雑に変化します。京急の踏切近辺には横浜市と川崎市、両市境を示す道標が設置されています。

横浜市側

川崎市側

一本で両市を示している珍しいの道標の一つです。
市境は第一京浜、国道15号線に向かいます。
第937話【市境を歩く】川崎市境0その2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11168
につづく

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第935話横浜を歩く点と線「イタリア」

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前回、山手の外国<エリア>を紹介しました。
フランス山(フランス領事館)
アメリカ山(米国公使館ゆかり?)
イギリス館(英国総領事公邸)
 ※「港の見える丘」一帯はイギリス山
イタリア山(イタリア領事館)
英米仏に比べ、イタリア?
ちょっと印象が薄いようですが、

伊太利亜!

Flag_of_Italy

実は横浜と結構深ーーーい関係にあります。
イタリア山公園はかつてここにイタリア領事館があったことから、ここを整備する際に水路や花壇を幾何学式に配したイタリア式庭園として「イタリア山」と命名します。
イタリア領事館は
1880年(明治13年)から1886年(明治19年)に設置されました。
http://db.nichibun.ac.jp/ja/d/GAI/info/GP006/item/018/
イタリアは欧州の中ではイタリア語圏で小国が雑居する中、
1861年(万延2年)にイタリア王国が建国され統一が図られます。その後、
1866年(慶応2年)にヴェネツィア、
1870年(明治3年)にローマなどの教皇領の残りを併合し、一応の半島の統一を見ます。まさに此の時に、イタリアは日本との国交樹立を断行します。
統一が実現した1866年(慶応2年)
日伊修好通商条約を締結のためにヴィットリオ・F・アルミニョン氏がイタリア海軍のコルヴェット艦「マジェンタ号」に乗船し来日します。
14代将軍徳川家茂あてのイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(VittorioEmanueleII)よりの親書を携え<締結>を急ぎます。この時、フランスと近かったイタリアはレオン・ロッシュの支援で8月25日(慶應2年7月16日)に綱渡り調印を成功させました。
なんと、調印から僅か4日後に将軍家茂が死去し、様々な政治課題が停滞する直前の離れ業でした。おそらくこのチャンスを逃したら、日本の歴史、横浜の歴史は変わっていたかもしれません。
なぜ、ここまでしてイタリアは日本との通商条約を急いだのでしょうか。
話は、二年遡ります。
井土ヶ谷事件に端を発した外交問題が起こります。
横浜居留地の警備のため山手に駐屯していた、フランス陸軍のアフリカ連隊付少尉アンリ・カミユ(J.J.Henri.Camus)が2人の同僚士官と共に乗馬を楽しむ際、居留地から馬で井土ヶ谷村へさしかかったこの場所で浪士2名によって襲撃を受けます。
先頭に居たカミユは即死の状態で絶命します。襲撃した浪士は逃走し、神奈川奉行並合原猪三朗が捜査を開始しますが、犯人逮捕に至りませんでした。
この事件はその後日仏関係に大きな影響を及ぼします。
(井土ケ谷事件とパリ)
この井土ケ谷事件を解決するために
1864年(元治元年)池田長発(いけだながおき)が率いる横浜鎖港談判使節団がフランスを訪れている時に、フランス駐在イタリア大使が使節団に接触し、通商条約締結の打診を行い情報を確認し特使を日本に派遣します。
※池田長発の渡航も横浜と深い関係にあります。(別途紹介します)
当時イタリアは
オーストリア帝国と戦火を交えている最中で結果壊滅的な敗北を喫していました。一方でオーストリア帝国は北西で隣接するプロイセンの圧倒的な軍事力に屈服するという複雑な関係にありました。
イタリアはオーストリア帝国に大敗したにも関わらず、ナポレオン三世の仲介で弱るオーストリア帝国から奪われたヴェネツィアとヴェネト州を返還することに成功します。
イタリアの統一が実現しイタリア王国が建国されたタイミングで、イタリアは重大な経済危機を迎えます。それは「微粒子病」(ペブリン)の蔓延でした。
(欧州最大市場)
イタリアは当時、欧州のシルク産業の中心地でした。
「蚕種の輸出額は日本の輸出総額の23%以上を占める年もあり、そのおよそ7〜8割はイタリア市場に流れるものだった。この貿易関係は養蚕製糸業に依存するイタリア経済を支えながら、日本が近代化を成し遂げるために必要としていた膨大な収入を確保させていたため、両国にとって極めて有利で、重要なものだった。」(ベルテッリ・ジュリオ・アントニオ)
何故イタリアは極東アジアの日本から蚕種を輸入するする必要があったのでしょうか?
「微粒子病」(ペブリン)の流行でした。「微粒子病」は蚕の生糸生産力を著しく低下させ、現在も治療不可能な難病です。原因を突き止めた研究者の一人がルイ・パストゥールで効果的な予防法(顕微鏡検査)により劇的な改善がみられるようになります。
ただ、イタリアを含め同じくシルク生産・消費国だったフランスも予防法の普及が始まったのが1869年(明治2年)以降になります。解決策はまだ感染していない地域で無病の蚕種を輸入するしかありませんでした。その為、イタリアの養蚕ハンターは遠く極東に無菌の蚕を発見しました。

幕末の幕府財政、明治の初期にかけて日本の養蚕が発展し、その後の横浜経済、日本の経済を支えたキッカケを作ったのが イタリアとの交易でした。
しかし、イタリアは 英国の介入で横浜(日本)において急速にその地位を失っていくことになります。
イタリア山には1880年(明治13年)から1886年(明治19年)の短い間ですが領事館が開設され、日本とイタリアの交流に努めました。
この場所はその後所有者が変わり、歴史を経て横浜市が管理し、貴重な洋館を移築し庭園とともに山手の洋館群の要となっています。
(つづく)

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第934話 横浜を歩く点と線「居留地を見下ろす国」

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横浜の山手には、欧州の国名の付いた空間が多数あります。
フランス山(フランス領事館)
アメリカ山(米国公使館ゆかり?)
イギリス館(英国総領事公邸)
※「港の見える丘」一帯はイギリス山
イタリア山(イタリア領事館)
山手の各国の名に因んだエリアは実に見事だと思います。
ここにオランダとドイツ、さらにロシア・スイスなどがあれば完璧!?
山手で横浜開港史が語れます。
欧米各国とは初期に外交関係を結びます。
 ●日米修好通商条約 1858年7月29日(安政5年6月19日)
 ●日蘭通商修好条約 1858年8月18日(安政5年7月10日)
 ●日露修好通商条約 1858年8月19日(安政5年7月11日)
 ●日英修好通商条約 1858年8月26日(安政5年7月18日)
 ●日仏修好通商条約 1858年10月9日(安政5年9月3日)
この五カ国が通商条約を皮切りにその他の欧州やアジア各国と外交関係を樹立していきます。
開港のキッカケはアメリカでしたが、南北戦争という内政問題で一時期外交が手薄になり、英国がイニシアチブを握るようになります。欧州では、プロシア(ドイツ)、オーストリア、フランスを巻き込んだ緊迫した状態が続き、
1853年〜1856年 クリミア戦争
1861年〜1865年 南北戦争
1866年 普墺戦争(イタリア参戦)
1870年〜1871年 普仏戦争
1877年〜1878年 露土戦争
この間、英国は後にいわれたSplendid Isolation「栄光ある孤立」で大国間の摩擦を回避し中国・インドにおける権益を確保しながら帝国主義へとシフトしつつありました。
幕末から明治にかけて、日本には 世界情勢の縮図が展開されます。
例えば
築港・土木で オランダ(背後にプロシア)と英国がしのぎを削り
対立こそ表面化しませんが居留地での米英対立や
お雇い外国人による国内モジュール競争も熾烈になっていきます。
話を横浜山手に戻しましょう。
横浜開港を契機に列強の一つフランスは横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防衛を目的にイギリスより一年早く山手に軍隊駐屯を決定します。
1863年(文久3年)にフランス海兵隊が“山手186番”に駐屯を開始し軍兵舎を3棟建設します。これがフランスの横浜駐留のはじまりです。
その後、英国が山手山頂に大軍隊を駐留させます。
居留地の人口構成は、一般外国人より圧倒的に<駐留軍>の方が多かったのです。
英仏含めた外国軍が日本に駐留していたのは
1875年(明治8年)3月まで。
約12年間駐屯地として使用されてきました。
No.175 6月23日 フランス軍港があった丘

No.175 6月23日 フランス軍港があった丘

No.94 4月3日 横浜弁天通1875年(大幅加筆)

No.94 4月3日 横浜弁天通1875年(大幅加筆)


(山手からの風景)

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第933話 【横浜の企業】横浜のNPK

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肥料工場は日本工業化の代表産業でした。
肥料の歴史は、農業の歴史でもあります。かつて人類は、移動する狩猟生活から定住する農業にシフトするキッカケを得ます。これによって農業生産による食料の安定確保が可能となりカロリー量の高い食物を生産することが可能となりました。そのためには、農地の<地力>を維持させる知恵を得ました。
焼畑農業、輪作等を生産力維持の手段としてきましたが、農業は積極的に肥料を使用することで、生産力を爆発的に増加させることを学びます。
特に平野の少ない日本の国土では、集約型農業であったこともあり江戸時代から<肥料>は重要な商品となり市場を作り出しました。
江戸の農業革命は肥料革命でもあったのです。
魚粕、菜種粕、人糞尿、骨粉などが肥料として活用されました。江戸期、貧乏長屋で家賃を滞納しても立ち退かなくて済んだのは、住民の人糞尿が高額で近郊農業の肥料として買い取られたからです。
そして近代は化成肥料の生産(工業化)をもたらしました。化成肥料生産は19世紀の中ごろから20世紀初頭に始まり、農業生産に大きく貢献し国家政策にまでなります。
肥料を分類すると無機質肥料(化学肥料)と有機質肥料に分かれます。
そして無機質肥料は単肥(チッソN、リン酸P、カリKのうち一つの成分を含んだ肥料)と複合肥料(チッソ、リン酸、カリのうち2成分以上を含んだ肥料)とに分かれます。
目下地球的規模で危機となってるのが安価だったリン酸の原材料の枯渇です。
 
農業とは何かを調べてみると
wikipediaに面白い定義が示されていました。
「農業は、土壌から栄養を吸って生育した植物を持ち去って利用する行為」
土壌の栄養を追加することを追肥をいいます。
肥料の定義を示してみます。
「植物の栄養に供すること又は植物の栽培に資するため土壌に化学的変化をもたらすことを目的として土地に施される物及び植物の栄養に供することを目的として植物に施される物をいう」
人口あたりの農耕地面積が狭い日本にとって肥料生産は国力の基幹となった訳です。
 
舞台を横浜に移します。
明治以降、横浜が貿易中心から工業化へシフトする過程で、肥料関係の企業も存在感を示します。食油製造に使用する大豆の搾りかすは肥料の原材料となるため、関連企業が設立されました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8086
昭和初期(戦前期)の京浜地域の地図を眺めてみると
肥料関係の工場、企業が点在しています。
 
◯大日本人造肥料株式会社
1887年( 明治20年)4月
 高峰譲吉、渋沢栄一、益田孝ら明治の先覚者により、わが国初の化学肥料製造会社である東京人造肥料会社として創業
1910年(明治43年) 7月
 大日本人造肥料株式会社に商号変更
1931年(昭和 6年) 2月
 大日本人造肥料株式会社肥料試験場(横浜市子安)が白岡に移転。
その後「日産化学工業株式会社」となります。
 
◯加里工業
 神奈川区恵比須町9・10
隣接して
◯全国購買組合聯合会
 肥料を含めた購買をまとめた協同組合の先駆けとして戦前の肥料飼料の購買に大きな影響をあたえました。
 
 食油産業も化成肥料の生産の一翼を担います。
◯鈴木商店
1922年(大正11年)
 4工場(大連・清水・鳴尾・横浜)を分離独立させ
  豊年製油(現・J-オイルミルズ)を設立します。
社の沿革には
 「大豆粕は肥料として一般農家に安く提供、食料増産、輸入肥料の代替という点で国家に大きく貢献した。」
 
◯帝国社農芸化学
 企業の詳細不明
◯有機肥料会社
 企業の詳細不明
 
横浜が誇る食油老舗「岩井の胡麻油」も1926年(大正15年)昭和初期に<製油肥料合名会社>となった時期がありました。
●岩井の胡麻油 沿革から
1893年(明治26年)
 横浜市神奈川区御殿町に搾油工場を設立
1900年(明治33年)
 横浜市神奈川区青木町に工場移転。岩井製油合資会社設立
1914年(大正3年)
 横浜市神奈川区星野町に大規模工場を設立
1921年(大正10年)
 家庭用化粧小缶を発売。大正博覧会で金賞受賞
1926年(大正15年)
 岩井製油肥料合名会社に社名変更
1947年(昭和22年)8月27日
 岩井製油株式会社設立
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