4月 3

第884話【今日の横浜】4月2日リベンジ横浜!

 万治2年2月11日(1659年4月2日)
横浜の原点となった「吉田新田」の第二回鍬入れ(再開)の日です。 旧暦では2月11日ですが、ここではネタ用に西暦を使わせていただきます。
実は 吉田新田干拓計画はさかのぼるところ
1656年9月5日
明暦2年7月17日に江戸の吉田勘兵衛が江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得て、入海の新田づくり鍬入れ式を行います。
ところが
1657年6月21日
明暦3年5月10日に新田工事の最中、13日まで大雨が降り続き
6月24日に潮除堤が崩壊し干拓工事事態が中止に追い込まれます。
これに屈すること無く、吉田勘兵衛は新田開発再開を決意、
万治2年2月11日(1659年4月2日)に
再開の鍬入れが行われました。この再開の決意がなければ現在の横浜はどうなっていたのでしょうか?
様々な想像ができます・
ただ、大岡川の隣を流れる帷子川に見られるように 大岡川河口もしばらくして複数の干拓事業が行われたでしょう。地権者が増えることによって このエリアの発展がスムースに進んだか? その後も沼地のままになったかもしれません。  今年は、「吉田新田完成350年」にあたります。
一人の事業者によっていち早くこの一帯が整備された意義は大きいのでないでしょうか。
吉田新田事業「土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島」から持ってきたそうです。

(吉田新田前史)
今から約350年以前の横浜エリアは、山手から砂嘴が突き出し、その内側には大岡川の河口から釣鐘形をした深い入り海が広がっていました。
このくちばしのような<砂嘴>の突先に 弁天様が祀られ
洲干弁天と称しました。 1170年代、12世紀の治承年間 源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられています。以降、850年近く経ちます。
■枕詞を疑え!!
少々余談となりますが、横浜史の枕詞(まくらことば)に
「入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり」
「戸数約100戸の半農半漁の寒村・横浜村(今の関内地区)」
と決まってペリー来航以前を<寒村>をしますが、
私は違和感を感じます。ここが<寒村>とするなら 日本中の豊かな村とはどんな村なのか?問いたい!
国語辞典にも「かん‐そん【寒村】 の意味 貧しい村。さびれた村。」
「洲干弁天社は開港前から景勝地として知られ、開港後は開港場の中心をなす横浜町の入口に位置することから、横浜名所の一つとなり、茶屋などが集まった。(開港資料館)」
と近年 横浜村周辺の表現が変わりつつあります。
→横浜村風光明媚論は追って書きます。

<簡単横浜の新田史>
1640年代(慶安年間)には元町1丁目の増徳院が別当となります。
1656年(明暦2年)吉田勘兵衛、江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得ます。
1656年(9月5日)(明暦2年7月17日)吉田新田 鍬入れ式が行われます。
1657年(6月21日))明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで大雨で潮除堤が崩壊
★1659年4月2日(万治2年2月11日)
吉田新田 工事を開始 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島から
1667年(寛文7年)吉田新田 完成
1669年(寛文9年)功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)公式の検地、新田村となった。
1707年(宝永4年)宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火
1761年(宝暦11年)検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
1780年(安永9年11月)検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)検地を受け藤江新田となる。
1818年(文化15年)「横浜新田」の名が初見(完成は?)。
1830年(天保年間)程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを開始。
1833年(天保4年)岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)検地を受け弘化新田となる。
1853年(嘉永6年)「太田屋新田」完成。
1854年 3月8日(嘉永7年)アメリカ海軍提督ペリーが黒船を率いて日本へ2度目の来航をし、横浜村へ上陸する。
1859年11月10日(安政6年)太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年6月2日(安政6年)横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟竣工。
1864年(元治元年)さらに検地を受け岡野新田拡大。
1867年(慶応3年)慶応の大火事の復興工事、町は和風から洋風への建て替えが始まり、石造りの洋風2階建ての「神奈川奉行所」完成。それを期に「横浜役所」へ名称変更。馬車道が開通する。
1868年8月(慶応4年)横浜町と太田町をあわせて二地区(上町・下町)に分け、5名の名主が担当した。
1869年(明治2年)洲干弁天社が移転。
1869年(明治2年3月)花咲町6丁目の内田清七、福島長兵衛ら県より請負い吉田橋北詰より野毛浦までの埋立てに着手。
1870年(明治3年)町屋の整った地域に長者町・福富町の二町が起立。
1871年7月(明治4年)横浜町と太田町の区域に正式に町名を付ける。本町・南仲通・北仲通・弁天通・元浜町・海岸通・堺町・太田町・小宝町・相生町・高砂町・住吉町・常盤町・尾上町・真砂町・港町・駒形町・羽衣町
1871年8月(明治4年)横浜関内各町を五区に分け、各々1名の名主が担当する。
1872年11月28日(明治5年)横浜役所は「横浜税関」へ名称変更。
1873年(明治6年)南一ツ目にあった遊水池(沼地)埋め立て、寿町ほか7か町が起立(埋地7か町)。
1873年5月1日(明治6年)神奈川県を20区に分け、区下に複数の番組を編成。横浜町は第1区1番組に編入される。
1873年5月1日(明治6年)平沼新田のうち、横浜道沿いの町屋が形成されていた箇所に平沼町が起立する。大区小区制により神奈川県第1大区3小区に属した。
1874年6月14日(明治7年)大区小区制に伴い、第1大区1小区に編入される。この頃伊勢佐木町ほか数町が起立
1876年(明治9年)洋式の公園「横浜公園」が開園。
1878年(明治11年)郡区町村編制法により以前の新田村が復活し、久良岐郡平沼新田、橘樹郡岡野新田に戻るが、平沼町は横浜区に編入された。(久良岐郡より独立)
1878年11月21日(明治11年)郡区町村編制法に基づき、横浜区となる。(久良岐郡から分離)
1878年7月(明治11年)市街地化した南三ツ目・北四ツ目までが横浜区に編入
1880年(明治13年)南三ツ目に高島町遊廓が移転
1889年(明治22年)市制町村制が施行され、平沼新田は久良岐郡戸太村に、岡野新田は橘樹郡保土ヶ谷村に、平沼町は横浜市にそれぞれ編入される。
1889年(4月1日)明治22年 市制施行により関内全域が横浜市となる。久良岐郡吉田新田から久良岐郡戸太村大字吉田新田となる。
1894年(明治27年)横浜港鉄桟橋(現:大さん橋)が完成する。
1895年(7月1日)明治28年 町制施行により久良岐郡戸太町大字吉田新田に。
1901年(明治34年)戸太町(戸太村が町制を施行)と保土ケ谷町の一部が横浜市に編入され、西平沼町と岡野町が置かれる。
1901年4月1日(明治34年)横浜市に編入。大字吉田新田の地に南吉田町を起立。全域が市街地となる。
■ざくっと一覧にして
関内外エリアがあらためて 埋立ての町=運河の町であることがわかります。
No.701 運河の街誕生(序章)

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

番外編ですが
掘割川の話です。ちょっと力作(自分的には)
No.437 横浜ドラゴンズ、吉田さんに斬られる!

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4月 2

第883話【時折今日の横浜】4月1日年度初め

4月になりました。“新”の多く付く時期です。
新学期、新入社員、新年度、新しい職場等。
4月1日は新制度や、新設の多い日なのでブログネタには困りません。
ここで
横浜の4月1日にふさわしいエイプリルフールネタ無いか?
と探しましたが時間切れ。
ということで 今日は「横浜誇張史」モトイ「横浜拡張史」にします。
横浜を知るベイシックテーマでもありますので
基本を押さえる感じで紹介します。
横浜市は市が誕生してから6回市域を拡張します。
その内、5回が年度初めの4月1日に行われました。
【市域拡張日】
(横浜市誕生)1889年(明治22年)4月1日
(第1次) 1901年(明治34年)4月1日
※10年後
(第2次) 1911年(明治44年)4月1日
※16年後
(第3次) 1927年(昭和 2年)4月1日
※9年後
(第4次) 1936年(昭和11年)10月1日◎
※一年後
(第5次) 1937年(昭和12年)4月1日
※2年後
(第6次) 1939年(昭和14年)4月1日
こう並べてみると第4次が気になりますよね!
さらに拡張の間隔で比較すると
第3次拡張まで38年
その後の6次拡張まで10年となります。
10月1日の市域拡大
唯一10月1日に拡張した◎の(第4次市域拡張)は
<旧相模国>鎌倉郡永野村が中区になり
<旧武蔵国>久良岐郡金沢町、六浦荘村が磯子区に編入したイレギュラーな拡張でにあたります。

武蔵国だった横浜市が<律令時代>を超えて、相模国の領域を初めて編入します。

過去ブログで簡単な市域拡張を紹介しました。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

<人口膨張>
6回の市域拡張に面積と人口を重ねてみます。
(横浜市誕生)1889年(明治22年)4月1日
面積 5.40km2  人口121,985 人
(第1次) 1901年(明治34年)4月1日
面積24.80km2  人口 299,202 人
(第2次) 1911年(明治44年)4月1日
面積36.71km2  人口 444,039 人
(第3次) 1927年(昭和 2年)4月1日
面積133.88km2  人口 529,300 人
※10月に区制となり最初の5区誕生
第二次・第三次の頃と最盛期の市電域が重なります。

(第4次) 1936年(昭和11年)10月1日
面積168.02km2  人口 738,400 人
(第5次) 1937年(昭和12年)4月1日
面積173.18km2  人口 759,700 人
(第6次) 1939年(昭和14年)4月1日
面積409.97km2  人口 866,200 人
※7区になります。
1942年(昭和17年)人口1,015,900人(百万人突破)
1945年(昭和20年)人口 624,994 人
1952年(昭和27年)人口1,013,075 人(百万人回復)
1968年(昭和43年)年度中に200万人突破
約16年で100万人増加
1985年(昭和60年)年度中に300万人突破
約17年で100万人増加、戦後40年で約240万人増加
ここに鉄道網を重ねてみると
横浜は、「横浜駅」を軸に放射状に成長し戦後は環状線を目指してきたことがよく分かります。

少子高齢化のこれから、この巨大都市はどうなっていくのでしょう。
(4月1日の過去ブログ)
No.92 4月1日 横浜市交通局ブルーライン大人200円

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4月 1

第882話【時折今日の横浜】3月31日 年度末

横浜港の軸「大さん橋」が竣工したのが
1894年(明治27年)の今日3月31日
 最初は「鐵桟橋」とか「税関桟橋」と呼ばれました。
1932年(昭和7年)の3月31日
 東急東横線「高島町駅〜桜木町駅間」が全通しました。
1978年(昭和53年)の3月31日
 平和球場が「横浜スタジアム」に生まれ変わりました。
1996年(平成8年)の3月31日
 観光周遊バス「ブルーライン」廃止 横浜市営交通八十年史
  1984年(昭和59年)4月1日から運行の始まったダブルデッカー (Double Decker) 型市内観光周遊バス「ブルーライン号」が廃止になった日です。

この3月31日 世の中は「年度末」
年度末は何故3月なんでしょうかね?
現在国の根幹となる<会計年度>は法律で4月1日〜3月31日とされています。
実は近代化が始まった明治初期には何度も会計年度が変わり実務当事者はかなり苦労したようです。
本日は横浜ネタから少し離れて
「年度末」について
年度末にアクセクするのは<近代>かららしいのですが
その前に、では江戸時代はどうだったのか?
江戸時代における会計実務は「和式簿記(帳合)」によるものでした。
大福帳は正月に始まり大晦日で終わりましたので
江戸期の年度は正月に始まり大晦日で終わり、
現在のような決算を出すことはありませんでした。
(明治の会計年度)
1869年(明治2年9月)
→旧暦10月〜旧暦9月制
1872年(明治5年10月)
→1月〜12月(1873年(明治6年)実施)
1874年(明治7年)12月
→7月〜6月(1875年(明治8年)実施)
1884年(明治17年)10月
→4月〜3月<太政官達89号>明治19年4月施行
1886年(明治19年)4月から
現在のような年度が実施されるようになります。
会計年度のみならず、小学校でも4月入学が<奨励される>ようになります。
ただ学校の4月入学が法制化するのは もう少し時間がかかります。
1888年(明治21年)全国の師範学校4月入学
1900年(明治33年)小学校が4月入学
まだ 大学(1921年(大正10年)まで)・旧制高校(1919年(大正8年)まで)は9月入学となっていました。
※9月入学を続ける私学もありました。
現在のように4月新学期は日本だけのようです。概ね9月新学期が多いようですが、1月から9月までばらつきが見られます。真冬・真夏の新学期はないようですね。
会計年度に戻ります。諸外国では学校年度と会計年度が必ずしも一致しているわけではありません。
<世界の会計年度>
1月〜12月韓国、中国、ロシア、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、スイスや南米諸国。
4月〜3月日本、イギリス、インド、パキスタン、カナダ、デンマークなど。
7月〜6月ノルウェー、スウェーデン、ギリシア、フィリピン、オーストラリアなど。
10月〜9月アメリカ、タイ、ミャンマー、ハイチなど。
日本が4月〜3月となったのはイギリスの影響が大きかったようです。

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3月 31

第881話【時折今日の横浜】3月30日4mの背伸び

1934年(昭和9年)3月30日
「横浜税関庁舎(クイーンの塔)竣工(横浜税関百二十年史)」
横浜三塔の一つで三塔の内で、昭和に竣工したのがクイーンと呼ばれる「横浜税関」です。設計は<横浜税関>によると
「吉武東里氏(国会議事堂も設計)と伝えられているが、詳細は不明」としています。
その他の資料の多くは「吉武東里設計、戸田組施工」と表記しています。
何故?本元とデータが違うのか 良く判りません。
(4mの背伸び)
三代目横浜税関建設にはエピソードが残されています。
「関東大震災(大正12年)で税関庁舎も倒壊。その後、財政窮乏の続いた時代に、税関の仕事は平屋のバラック建で行われていた。そんな折り、時の大蔵大臣高橋是清が「失業者救済のため土木事業を起こすべき…」との発言。
1932年(昭和7年)第22代税関長に就任した金子隆三は、この意を受け
失業者救済をかねて三代目税関庁舎(現庁舎)建設に着手し、急ピッチで建設が進められます。
この時に、横浜港界隈には“神奈川県庁(高さ49m)”と“横浜開港記念会館(高さ36m)”という当時の高層建築物が2つランドマークとなっていました。
塔の高さ47mの税関庁舎の当初の設計図を見た金子税関長は「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき…」と言及。設計図が書き直され、当初より4m高い現庁舎“横浜税関(高さ51m)”が完成したそうです。」

だからですかね、たしかに 少し首長に見えます。
竣工データは
SRC造、地上5階+塔屋。敷地面積が6,875m2、延床面積が12,184m2です。

(簡単な横濱税関史)
安政元年、米国との間に「日米和親条約」が結ばれます。
安政五年に「安政五カ国条約」が締結されこの条約ににもとづき、日本(徳川政府)は
1859年(安政六年六月)
開港し関税と外交事務をあつかう部署「神奈川運上所」を設置します。
場所は、現在の神奈川県庁本館のある場所で記念碑が建っています。
1866年(慶応二年)の大火で焼失
1867年(慶応三年三月)再建
18871年(明治4年)組織変更に伴い「神奈川運上所」を「横浜運上所」に改称。
※歴史のif
神奈川県は横浜県となったかもしれませんね。
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日

その後、
1872年(明治5年)11月
「横浜役所」における「運上所」を「税関」と統一し関東大震災前までは、日本大通りが横浜港とつながる現在の象の「鼻パーク一角」にありました。
1885年(明治18年)11月
二代目税関庁舎竣工。清水満之助の請負といわれています。<中央に塔を配した煉瓦造2階建ての2代目庁舎><冬の横浜税関>

関東大震災ですべて倒壊、

倒壊した横浜税関

1934年(昭和9年)3月30日
横浜税関現本関庁舎(クイーンの塔)が竣工します。

竣工間もない横浜税関
占領中新港橋から税関

1945年(昭和20年)8月30日
横浜税関本庁舎は接収されアメリカ陸軍第8軍司令部が置かれました。一時期、税関長室をマッカーサーが使用していたこともあるそうです。
税関業務は、仮庁舎で行われ
1953年(昭和28年)11月にようやく接収解除となり 現在の場所に戻ります。

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3月 28

第880話【絵葉書の風景】横濱乗物図鑑

車馬交通の最も頻繁なる桜木町通り

私のお気に入りの絵葉書の一枚です。
改めて見直すとこの<風景>少々 不自然さを禁じ得ない。
撮影を意図して、当時の乗物すべてをここに集めて撮影したとしか思えない構図となっています。
市内の乗物を一同に並べ 一斉に走らせ カメラマンはシャッターを切った!
という感じがしてならない。

(画像右から)歩道に女性が歩き
袋をいっぱい積んだ馬車と車夫
後続の馬車
人力車多数の自転車
高架に電車
自動車
市電(307番)上り線
横切る自転車荷車、大八車を引く人
空のものから満載まで多様な荷車が道路を走っている姿が捉えられています。
■撮影時期
大正13年〜昭和初期あたり
時刻は 午後3時50分あたり
■画像左のマールの建築は「神奈川県農工銀行」
明治31年〜昭和19年まで営業

昭和4年

「農工銀行(のうこうぎんこう)とは、日本全国各地に戦前に存在した、特殊銀行の一つ。」で戦後勧業銀行に吸収されました。
まるで 横濱乗物図鑑のような風景です。
空に航空機が舞えば パーフェクト、とまでは望むまい。

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3月 27

第879話【時折今日の横浜】3月27日日米接続

1901年(明治34年)の今日
「太平洋電線敷設に関する建議書を提出する。(横浜商工会議所百年史)」

日米の通信(太平洋の電線敷設)は、明治初期からの懸案事項でした。
日本における国際通信の歴史は意外に古く
1870年(明治3年)10月
日本政府はデンマークの電気通信事業会社「大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ株式会社)」に免許状を発行し、
1871年(明治4年)8月に事業が始まります。
まず長崎と上海が海底ケーブルで結ばれ、通信ビジネスが始まりますが、当時最も貿易量が多かった日米間の通信は中国から欧州経由で国際電報によって行わなければなりませんでした。
日米直結の太平洋ケーブル計画は、通信が欧州からアジアに開通した明治初期からの念願で、特に国内最大の対米貿易都市横浜にとって「太平洋ケーブル敷設」は悲願でもありました。
実はデンマークの電気通信事業会社「大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ株式会社)」が日本に通信ケーブルの陸揚げ申請をした時期に米国も日本政府に対し通信ケーブルの陸揚げ申請が出されています。
何故米国の通信事業が実現しなかったのか?
最初の申請がワシントンと函館等を結ぶものだったため<明治政府>は、横浜・長崎以外の接続(陸揚)を認めませんでした。
<明治政府の反応は江戸時代と変わらない発想ですが、米国もなぜ弱気の北米経由だったのか?>
日米間のケーブル通信が実現にはその後 かなりの時間を必要としました。
(日米接近)
日本の経済界にとって、特に横浜経済界にとって日米のダイレクトな通信回線設置は悲願でした。
1881年(明治14年)
日本国最初の外国首脳訪日となったハワイ王カラカウア王一行の正確な到着時間も(欧州経由)電信で伝えられ日本政府は歓迎の準備ができ、来日したハワイ国王とも太平洋通信計画が話し合われたそうです。
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/34.html

(大谷嘉兵衛の奮闘)
1899年(明治32年)
横浜商工会議所会頭 大谷嘉兵衛は米国フィラデルフィアで開催された
第一回国際商業会議所会議に出席、日本代表として米国に建議書を渡します。
この建議書は、国際商業会議において<決議>され米国政府、米国議会に提出され、日米通信の機運が高まります。米国では1901年までの二年間で約18の太平洋通信の議案が提出されますが、ことごとく意見対立で廃案となってしまい実現することはありませんでした。

<アジア特に日本は欧米間と比べ空白地帯でした>
その後、米国政府の決定を見ぬまま 補助金無しでハワイ〜マニラまで
民間資本によって<ケーブル敷設事業>を開始します。
1903年(明治36年)
太平洋通信回線がサンフランシスコ〜ハワイ〜マニラまでが開通。
その後マニラ〜グアム〜父島間の回線とを繋ぎ
1906年(明治39年)8月1日
最終的に
太平洋が通信線で繋がることになります。
No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/126.html
(大正のロッキード事件)
大正時代には一通の電信が大問題となった「大正のロッキード事件」が起こります。
「シーメンス事件」です。
この事件も横浜が舞台でした。
No.23 1月23日 大正の正義
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/123.html

※絵葉書画像「日米海底電信直通紀年」
1906年(明治39年)8月1日の記念スタンプ

No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/122.html
No.345 12月10日(月)Tea or Coffee?

No.345 12月10日(月)Tea or Coffee?


No.112 4月21日 濱にお茶は欠かせない
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/421_21.html
日清戦争後、日本国内でも大北電信会社に依存する状態を懸念する動きがでてきます。
政府レベルとは違う民間の視点でも日米通信の実現を強く希望したのが横浜でした。

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3月 26

第878話【時折今日の横浜】3月26日

三渓園
1954年(昭和29年)の今日
現在、多くの市民に愛されている三渓園が“市民公園”として開園しました。
桜の季節に合わせての開園でしょう。
本牧にある三渓園は、横浜を代表する実業家であった原富太郎(原 三渓)が明治時代に作った自宅を兼ねた庭園です。
1906年(明治39年)5月1日には自宅でありながらその多くを市民に公開、戦前の横浜名所として賑わいました。
彼は多くの芸術家を支援、当時の鈍翁(益田孝)と並ぶ日本美術コレクターでもありました。
横浜が歩んだ悲劇の歴史を三渓園も受け、関東大震災と横浜大空襲で多くの建造物と美術品を失い戦後、原コレクションも散逸してしいます。
オーナーであった原家は、苦渋の売却を決意しますが開発事業者ではなく横浜市に活用を委ねます。三渓園の保全に積極的だった平沼亮三が横浜市長に当選したことで、三渓園の財団化が積極的に進められます。
1953年(昭和28年)に「財団法人三溪園保勝会」が設立され、本格的な再整備が始まり、1954年(昭和29年)の今日 開園し現在に至ります。
三渓園をめぐる関連ブログ
No.280 10月6日(土)天心と三渓

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No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け

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【横浜 三溪園】
www.sankeien.or.jp/
「三溪園は、横浜市中区にある庭園。17.5haの敷地に17棟の日本建築が配置されている。実業家で茶人の原富太郎によって1906年に造園され、現在は公益財団法人三溪園保勝会が運営している。名称の三溪園は原の号である三溪から。2006年11月17日に国の名勝に指定された。」

<三渓園の風景>

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3月 26

番外編【メディアとしての絵葉書】ハルピンの沖禎介

戦前期、年間数億枚も発行された「絵葉書」は当時の重要なメディアでした。
この絵葉書は
「明治37年4月20日付け
大日本帝国沖縄県那覇
沖庄蔵 殿
在 ハルピン 沖 禎介」
発行は大正期と思われます。
沖 禎介(おき ていすけ)という人物は
大陸浪人、諜報活動家、日本軍特殊任務従事者といった肩書で紹介されています。簡単にいえば明治期のスパイ。
1874年(明治7年)6月
高名な沖縄地方裁判所判事 沖荘蔵の長男として長崎県平戸に生まれました。子供の頃から型破りたっだようで長崎尋常中学在学中に出奔して熊本済々黌(熊本県立済々黌高等学校)に入学します。ここにも落ち着かず、第五高等学校に入学しながらも中退、上京して新しき学びを求め東京専門学校(現 早稲田大学)で学びますが中退し横浜で貿易業に従事しアジアの視野が広がります。
日清戦争後、中国に空前の日本語学習ブームが起こり
1901年(明治34年)清に渡り北京の日本語学校「東文学社」の教師兼社長代理となり、活動の場を<中国大陸>に移します。沖<27歳>の時でした。
1903年(明治36年)に独立して「文明学校」を創設、清国人教育に取り組みます。
1904年(明治37年)2月8日に露戦争が勃発すると、沖は志願して特別任務班に入り「横川省三」らと共にロシア軍兵砧の大動脈である「東清鉄道」のチチハル雅児河鉄橋(鉄道橋梁)の爆破をくわだてるが、ツルチハ駅(隣駅)付近で捕獲され失敗。
ロシア軍に捕らえられ、ハルビン郊外で横川とともに1904年(明治37年)4月21日銃殺刑に処せられた。
というもの。

(絵葉書の風景)
画像に移された書面は
処刑前日に「沖 禎介」が両親に向けしたためた手紙で、
国に殉じた英雄として この資料が有名になり<絵葉書>になったものと思われます。
■沖禎介が両親に贈った最後の書翰書き下してみます。(誤読もあるかもしれませんが大筋読めました)
沖禎介が両親に贈った最後の書翰には

「児禎介謹而(ンデ)父母親大人二告別ス。児不孝。平常膝下二侍シテ孝道ヲ尽ス事能ワズ。嘗テ遺憾ト為シ処二御座候。然ルニ,此度本国政府ノ命令ヲ奉ジ決死数名ト共二蒙古旅行ノ途二上リ候処,運命ナル哉,某地二於テ露兵ノ為ニ捕獲セラレ,遂二軍事裁判ヲ以テ死刑ヲ宣告セラレ,本日銃殺致サレ候。是亦国家ノ為,何卒不孝ノ罪御宥免下サレ度ク,先ハ御暇ヲ乞ウ此ノ如シ。携クル所ノ銀五百両御落掌下サレ度ク願イ奉リ候。以上。於ハルビン 明治三七年四月廿日
児 禎介
父母親大人膝下 後事ハ
右金受取方ハ 川島浪速(北京警務学堂監督)氏二御相談願奉り候。
銀五百両一件ハニ人(捕獲セラレシモノ二人 一人ハ横川省三ト云イ,司令官ナリ。
不肖児ハ第二級高等官)相談ノ上露国赤十字社二寄贈二子シ申候。何レ不肖等ノ後事ハ日本政府其事二任ズベシト存候。以上。」
とあります。

冒頭に沖を「大陸浪人」と紹介しました。
「大陸浪人(たいりくろうにん)とは、明治初期から第二次世界大戦終結までの時期に中国大陸・ユーラシア大陸・シベリア・東南アジアを中心とした地域に居住・放浪して各種の政治活動を行っていた日本人の一群を指す。(wikipedia)」
岸田吟香
宮崎滔天
二葉亭四迷
甘粕正彦
小日向白朗
児玉誉士夫
他 多くの人物が
戦前の満州を舞台に 日本の大アジア主義を形成していきました。
横浜時代の沖はどのような仕事に就き、何を見たのか?
手元の資料だけでは不明ですが 気になります。
銃殺となった大陸浪人 沖 禎介の父 沖荘蔵は
その後、団長として
1925年(大正14年)に横浜から高麗号でソ連領土「北樺太」を北原白秋らと観光に出かけています。(北原白秋「フレップ・トリップ」)

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3月 25

第877話【時折今日の横浜】3月25日

1929年(昭和4年)の今日
横浜市営交通八十年史の年表に
「神中鉄道と連絡運転開始(連絡駅は社線は西横浜駅、市電は水道道停車場)」

時代は、横浜市の関東大震災復興計画が仕上げの時期に来ている頃です。
横浜の街(関内外特に伊勢佐木あたり)にも“にぎわい”が戻りつつありました。
神奈川の鉄道関係者にとって、昭和初期は苦難と希望の時期に当たります。
この年表にあった「神中鉄道と市電の連絡運転開始」を元に、当時の「西横浜」停留所の意味を考えてみます。
<神中は程ケ谷を目指す>
神中鉄道、現在の相模鉄道にとって「西横浜」停留所開業は重要な意味がありました。神中鉄道は厚木から始まり、当初は国鉄「程ケ谷駅」近くで東海道線につなげる計画で延伸してきたからです。まだ、横浜駅が二代目(高島町)のころです。
1927年(昭和2年)5月に「北程ケ谷(現:星川)」停留所を開業し、さらに国鉄東海道線を目指します。この年、保土ケ谷エリアは念願の横浜市に編入「保土ケ谷区」となり区役所も国鉄保土ヶ谷駅近くに開設します。
いよいよ東海道線との接続を実現するため「西横浜」停留所までの延伸計画を進めますが、震災で甚大な被害を受けた二代目横浜駅が廃止、三代目(現在の場所)となり、東海道線も弓なりだった路線が平沼を抜けほぼ真っすぐ程ケ谷駅と結ぶ新線が1928年(昭和3年)に完成します。
そこで、市電網の充実を復興計画の一環として計画していた横浜市は、神中鉄道「西横浜」開業に伴い、接続駅「水道道」停車場を1929年(昭和4年)3月25日に開業します。
これによって、
関内に竣工した新県庁にもまた市役所にもアクセスが確保できることになります。
1929年(昭和4年)2月14日に開業したこの「西横浜」停留所と3月25日開業の市電「水道道」停車場の<乗り継ぎ接続>は重要なポイントでした。
以降、神中鉄道は計画線を変更し、新しい東海道線に沿って
新しい「横浜駅」を目指します。
(相模鉄道延伸)
現在の相模鉄道の前身神中鉄道、延伸史をまとめてみました。
[厚木]〜大正15年5月12日〜[二俣川]
[二俣川]〜大正15年12月1月〜[星川](現:上星川)
[星川]〜昭和2年5月31日〜[北程ケ谷](現:星川)
[北程ケ谷]〜昭和4年2月14日〜[西横浜]
[西横浜]〜昭和6年10月25日〜[平沼橋]
[平沼橋]〜昭和8年12月27>〜[横浜]
<相鉄の簡単な歴史>
http://sotetsu-kids.jp/sotetsu/rekishi.html

(その他の3月25日)
■1959年(昭和34年)3月25日
「大黒町埋立完工式〔1.33〕(横浜の埋立)」
「大黒町地先埋立工事竣工式(横浜市会の百年)
「大黒町埋立工事竣工式(横浜税関百二十年史)
■1981年(昭和56年)3月25日
「市が開発した水の缶詰発売(横浜市会の百年)」
水の缶詰・・現在も横浜市水道局各営業所で販売(350ml入り50円)しています。
この缶詰は5年間保存可能で、缶入りなので遮光されています。
透明のビニール袋等に入れておくと、保存中に飲み口がほこりなどで汚れることがありません。
http://www.city.yokohama.lg.jp/…/life-inf/mizu/hozonsui.html
応急給水拠点
水道水の缶詰は
横浜市が全国で初めて昭和48年水道水の缶詰に製造計画に着手し
「全国に先がけて、昭和52年に災害備蓄用の保存飲料水として「水の缶詰」を販売しています。(水道局)」
■1989年(平成元年)3月25日
市政100周年・開港130周年記念「横浜博覧会」開幕
<開催期間は1989年(平成元年)3月25日〜10月1日>
開会式は3月24日です。
横浜博覧会関係はこのブログでも3月24日で紹介しています。
No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催

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No.191 7月9日(火) 宙に舞う話

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No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

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「横浜博覧会」開幕と一緒に横浜美術館も開館しています。

(3月25日関係ブログ)
No.85 3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港

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3月 24

第876話【時折今日の横浜】3月24日

1985年(昭和60年)3月24日の今日、
三菱銀行人質たてこもり強盗事件が横浜で起こりました。
<毎日新聞>

「本町4丁目の三菱銀行横浜支店に、警察官の制服等を着装して警察官になりすました2人の男が、野毛場外馬券売場から車両で搬送される売上金等を狙って押し入り、同銀行員とガードマンにけん銃を突きつけて脅迫し、人質にして立てこもった事件である。警察本部長以下500余人の警察官を動員し、人質の救出を最重点に犯人の説得工作等の捜査を実施した結果、立てこもりから12時間後に主犯格が自らの頭部をけん銃で打ち抜いて自決。もう一人が説得に応じて非常口扉の施錠を開けたため捜査員が突入して被疑者を逮捕し、目と口にガムテープを張られ後ろ手錠をかけられて金庫室に押し込められていた4人の被害者を救出した。」(加賀町警察)

この事件以前にもう一つの<人質事件>が同じ三菱銀行で起こっていました。
1979年(昭和54年)1月26日
三菱銀行北畠支店(現三菱東京UFJ銀行北畠支店)に猟銃を持った男が押し入り、客と行員30人以上を人質にした銀行強盗および人質・猟奇殺人事件が起こります。
「三菱銀行人質たてこもり強盗事件」を記憶されている方?
日本の犯罪史に残る銀行強盗事件として
その後の犯罪心理学の授業に良く登場するのが
この三菱銀行北畠支店人質事件です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/三菱銀行人質事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/ストックホルム症候群

この事件から6年後
1985年(昭和60年)3月24日の今日、上記の通り
三菱銀行横浜支店で人質たてこもり強盗事件が起こります。
当時 三菱銀行横浜支店は横浜市中区本町4丁目41、本町三丁目四丁目の交差点の一角にありました。このあたりは、戦前から金融街で多くの銀行、證券、保険関係の本店・支店が建ち並んでいました。絹取引の中心地であった北仲エリアがあったからですが、戦後もしばらく<銀行街>はここに残りました。
上記地図は昭和39年ごろの本町四丁目近辺です。10以上の金融機関がここ本町通りに集中している様子が良くわかります。

その後、三菱銀行横浜支店は1996年(平成8年)に東京銀行と合併し、旧東京銀行横浜支店に移動します。
この人質強盗事件は「元警官の短銃強盗」として6年前の<梅本事件>とは異なった意味合いで大きなニュースとなりました。

「横浜市の三菱銀行横浜支店に二人組短銃強盗が押し入り、行員とガードマンの四人を人質に立てこもった。翌3月25日 約12時間後に犯人の一人が短銃自殺を図り、警官隊が突入、人質を救出、犯人を逮捕した。(毎日新聞)」

自殺を図った犯人は元神奈川県警鶴見署の巡査部長小沢弘(40歳)、その後病院で亡くなります。
もう一人の犯人は小沢の友人で自動車金融会社社員の平尾則人(現行犯逮捕)43歳でした。
二人は警察官の制服等を着装して警察官になりすまし野毛の場外馬券売場から車両で搬送される売上金等を狙って押し入り銀行員とガードマンの計4人を人質に立てこもった事件でした。神奈川県警は警察本部長以下500余人の警察官を動員し説得を中心に人質の救出を行った結果、立てこもりから12時間後に主犯格だった小沢弘が自らの頭部をけん銃で打ち抜いて自殺。もう一人の共犯平尾則人が説得に応じて非常口扉の施錠を開け、捜査員が突入し被疑者を逮捕しました。
目と口にガムテープを張られ後ろ手錠をかけられた状態で金庫室に押し込められていた銀行関係者4人は無事に救出されます。
事件当日、現金輸送車で5億6千万円も現金が野毛から銀行に運び込まれることを調べた上、主犯格の元警官が<在職中の制服・制帽>を使い行員を騙して犯行に及んだことで神奈川県警に動揺が走った事件でした。
この事件は国会でも元警察官の事件として何回か取り上げられ、議論になりましたが
犯行そのものは稚拙で衝動的なものだったためその後の報道から<元警察官>の表記が消えていきます。
冒頭の加賀町警察の事件簿にもこのことは触れられていません。

■私の勝手な推測
もしこの事件が無かったら
「東京三菱銀行横浜支店」は現在旧東京銀行横浜支店の場所ではなくこの事件のあった本町4丁目になったのではないか?
本当のところはわかりません。
ただ、この三菱銀行は歴史的建造物で、売却後の保全をどうするかいろいろ議論があった建造物です。
現在も繰り返し議論されている歴史的文脈をどう残すか?
この銀行、表向きの理由は<手狭・保全コスト>だったような記憶もありますが、ファサードの一部がマンションの一角に残されています。

※東京三菱銀行横浜支店
1934年(昭和9年) 旧川崎第百銀行横浜支店として建てられました。
設計者はストロングビル・日本興亜ビル(旧川崎銀行横浜支店)も設計した矢部又吉です。

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Category: 横浜でバス巡り, 横浜の道 | 第876話【時折今日の横浜】3月24日 はコメントを受け付けていません。