第878話【時折今日の横浜】3月26日

三渓園
1954年(昭和29年)の今日
現在、多くの市民に愛されている三渓園が“市民公園”として開園しました。
桜の季節に合わせての開園でしょう。
本牧にある三渓園は、横浜を代表する実業家であった原富太郎(原 三渓)が明治時代に作った自宅を兼ねた庭園です。
1906年(明治39年)5月1日には自宅でありながらその多くを市民に公開、戦前の横浜名所として賑わいました。
彼は多くの芸術家を支援、当時の鈍翁(益田孝)と並ぶ日本美術コレクターでもありました。
横浜が歩んだ悲劇の歴史を三渓園も受け、関東大震災と横浜大空襲で多くの建造物と美術品を失い戦後、原コレクションも散逸してしいます。
オーナーであった原家は、苦渋の売却を決意しますが開発事業者ではなく横浜市に活用を委ねます。三渓園の保全に積極的だった平沼亮三が横浜市長に当選したことで、三渓園の財団化が積極的に進められます。
1953年(昭和28年)に「財団法人三溪園保勝会」が設立され、本格的な再整備が始まり、1954年(昭和29年)の今日 開園し現在に至ります。
三渓園をめぐる関連ブログ
No.280 10月6日(土)天心と三渓

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No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け

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【横浜 三溪園】
www.sankeien.or.jp/
「三溪園は、横浜市中区にある庭園。17.5haの敷地に17棟の日本建築が配置されている。実業家で茶人の原富太郎によって1906年に造園され、現在は公益財団法人三溪園保勝会が運営している。名称の三溪園は原の号である三溪から。2006年11月17日に国の名勝に指定された。」

<三渓園の風景>

番外編【メディアとしての絵葉書】ハルピンの沖禎介

戦前期、年間数億枚も発行された「絵葉書」は当時の重要なメディアでした。
この絵葉書は
「明治37年4月20日付け
大日本帝国沖縄県那覇
沖庄蔵 殿
在 ハルピン 沖 禎介」
発行は大正期と思われます。
沖 禎介(おき ていすけ)という人物は
大陸浪人、諜報活動家、日本軍特殊任務従事者といった肩書で紹介されています。簡単にいえば明治期のスパイ。
1874年(明治7年)6月
高名な沖縄地方裁判所判事 沖荘蔵の長男として長崎県平戸に生まれました。子供の頃から型破りたっだようで長崎尋常中学在学中に出奔して熊本済々黌(熊本県立済々黌高等学校)に入学します。ここにも落ち着かず、第五高等学校に入学しながらも中退、上京して新しき学びを求め東京専門学校(現 早稲田大学)で学びますが中退し横浜で貿易業に従事しアジアの視野が広がります。
日清戦争後、中国に空前の日本語学習ブームが起こり
1901年(明治34年)清に渡り北京の日本語学校「東文学社」の教師兼社長代理となり、活動の場を<中国大陸>に移します。沖<27歳>の時でした。
1903年(明治36年)に独立して「文明学校」を創設、清国人教育に取り組みます。
1904年(明治37年)2月8日に露戦争が勃発すると、沖は志願して特別任務班に入り「横川省三」らと共にロシア軍兵砧の大動脈である「東清鉄道」のチチハル雅児河鉄橋(鉄道橋梁)の爆破をくわだてるが、ツルチハ駅(隣駅)付近で捕獲され失敗。
ロシア軍に捕らえられ、ハルビン郊外で横川とともに1904年(明治37年)4月21日銃殺刑に処せられた。
というもの。

(絵葉書の風景)
画像に移された書面は
処刑前日に「沖 禎介」が両親に向けしたためた手紙で、
国に殉じた英雄として この資料が有名になり<絵葉書>になったものと思われます。
■沖禎介が両親に贈った最後の書翰書き下してみます。(誤読もあるかもしれませんが大筋読めました)
沖禎介が両親に贈った最後の書翰には

「児禎介謹而(ンデ)父母親大人二告別ス。児不孝。平常膝下二侍シテ孝道ヲ尽ス事能ワズ。嘗テ遺憾ト為シ処二御座候。然ルニ,此度本国政府ノ命令ヲ奉ジ決死数名ト共二蒙古旅行ノ途二上リ候処,運命ナル哉,某地二於テ露兵ノ為ニ捕獲セラレ,遂二軍事裁判ヲ以テ死刑ヲ宣告セラレ,本日銃殺致サレ候。是亦国家ノ為,何卒不孝ノ罪御宥免下サレ度ク,先ハ御暇ヲ乞ウ此ノ如シ。携クル所ノ銀五百両御落掌下サレ度ク願イ奉リ候。以上。於ハルビン 明治三七年四月廿日
児 禎介
父母親大人膝下 後事ハ
右金受取方ハ 川島浪速(北京警務学堂監督)氏二御相談願奉り候。
銀五百両一件ハニ人(捕獲セラレシモノ二人 一人ハ横川省三ト云イ,司令官ナリ。
不肖児ハ第二級高等官)相談ノ上露国赤十字社二寄贈二子シ申候。何レ不肖等ノ後事ハ日本政府其事二任ズベシト存候。以上。」
とあります。

冒頭に沖を「大陸浪人」と紹介しました。
「大陸浪人(たいりくろうにん)とは、明治初期から第二次世界大戦終結までの時期に中国大陸・ユーラシア大陸・シベリア・東南アジアを中心とした地域に居住・放浪して各種の政治活動を行っていた日本人の一群を指す。(wikipedia)」
岸田吟香
宮崎滔天
二葉亭四迷
甘粕正彦
小日向白朗
児玉誉士夫
他 多くの人物が
戦前の満州を舞台に 日本の大アジア主義を形成していきました。
横浜時代の沖はどのような仕事に就き、何を見たのか?
手元の資料だけでは不明ですが 気になります。
銃殺となった大陸浪人 沖 禎介の父 沖荘蔵は
その後、団長として
1925年(大正14年)に横浜から高麗号でソ連領土「北樺太」を北原白秋らと観光に出かけています。(北原白秋「フレップ・トリップ」)

第877話【時折今日の横浜】3月25日

1929年(昭和4年)の今日
横浜市営交通八十年史の年表に
「神中鉄道と連絡運転開始(連絡駅は社線は西横浜駅、市電は水道道停車場)」

時代は、横浜市の関東大震災復興計画が仕上げの時期に来ている頃です。
横浜の街(関内外特に伊勢佐木あたり)にも“にぎわい”が戻りつつありました。
神奈川の鉄道関係者にとって、昭和初期は苦難と希望の時期に当たります。
この年表にあった「神中鉄道と市電の連絡運転開始」を元に、当時の「西横浜」停留所の意味を考えてみます。
<神中は程ケ谷を目指す>
神中鉄道、現在の相模鉄道にとって「西横浜」停留所開業は重要な意味がありました。神中鉄道は厚木から始まり、当初は国鉄「程ケ谷駅」近くで東海道線につなげる計画で延伸してきたからです。まだ、横浜駅が二代目(高島町)のころです。
1927年(昭和2年)5月に「北程ケ谷(現:星川)」停留所を開業し、さらに国鉄東海道線を目指します。この年、保土ケ谷エリアは念願の横浜市に編入「保土ケ谷区」となり区役所も国鉄保土ヶ谷駅近くに開設します。
いよいよ東海道線との接続を実現するため「西横浜」停留所までの延伸計画を進めますが、震災で甚大な被害を受けた二代目横浜駅が廃止、三代目(現在の場所)となり、東海道線も弓なりだった路線が平沼を抜けほぼ真っすぐ程ケ谷駅と結ぶ新線が1928年(昭和3年)に完成します。
そこで、市電網の充実を復興計画の一環として計画していた横浜市は、神中鉄道「西横浜」開業に伴い、接続駅「水道道」停車場を1929年(昭和4年)3月25日に開業します。
これによって、
関内に竣工した新県庁にもまた市役所にもアクセスが確保できることになります。
1929年(昭和4年)2月14日に開業したこの「西横浜」停留所と3月25日開業の市電「水道道」停車場の<乗り継ぎ接続>は重要なポイントでした。
以降、神中鉄道は計画線を変更し、新しい東海道線に沿って
新しい「横浜駅」を目指します。
(相模鉄道延伸)
現在の相模鉄道の前身神中鉄道、延伸史をまとめてみました。
[厚木]〜大正15年5月12日〜[二俣川]
[二俣川]〜大正15年12月1月〜[星川](現:上星川)
[星川]〜昭和2年5月31日〜[北程ケ谷](現:星川)
[北程ケ谷]〜昭和4年2月14日〜[西横浜]
[西横浜]〜昭和6年10月25日〜[平沼橋]
[平沼橋]〜昭和8年12月27>〜[横浜]
<相鉄の簡単な歴史>
http://sotetsu-kids.jp/sotetsu/rekishi.html

(その他の3月25日)
■1959年(昭和34年)3月25日
「大黒町埋立完工式〔1.33〕(横浜の埋立)」
「大黒町地先埋立工事竣工式(横浜市会の百年)
「大黒町埋立工事竣工式(横浜税関百二十年史)
■1981年(昭和56年)3月25日
「市が開発した水の缶詰発売(横浜市会の百年)」
水の缶詰・・現在も横浜市水道局各営業所で販売(350ml入り50円)しています。
この缶詰は5年間保存可能で、缶入りなので遮光されています。
透明のビニール袋等に入れておくと、保存中に飲み口がほこりなどで汚れることがありません。
http://www.city.yokohama.lg.jp/…/life-inf/mizu/hozonsui.html
応急給水拠点
水道水の缶詰は
横浜市が全国で初めて昭和48年水道水の缶詰に製造計画に着手し
「全国に先がけて、昭和52年に災害備蓄用の保存飲料水として「水の缶詰」を販売しています。(水道局)」
■1989年(平成元年)3月25日
市政100周年・開港130周年記念「横浜博覧会」開幕
<開催期間は1989年(平成元年)3月25日〜10月1日>
開会式は3月24日です。
横浜博覧会関係はこのブログでも3月24日で紹介しています。
No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催

No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催


No.191 7月9日(火) 宙に舞う話

No.191 7月9日(火) 宙に舞う話


No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催


「横浜博覧会」開幕と一緒に横浜美術館も開館しています。

(3月25日関係ブログ)
No.85 3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港

No.85 3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港

第876話【時折今日の横浜】3月24日

1985年(昭和60年)3月24日の今日、
三菱銀行人質たてこもり強盗事件が横浜で起こりました。
<毎日新聞>

「本町4丁目の三菱銀行横浜支店に、警察官の制服等を着装して警察官になりすました2人の男が、野毛場外馬券売場から車両で搬送される売上金等を狙って押し入り、同銀行員とガードマンにけん銃を突きつけて脅迫し、人質にして立てこもった事件である。警察本部長以下500余人の警察官を動員し、人質の救出を最重点に犯人の説得工作等の捜査を実施した結果、立てこもりから12時間後に主犯格が自らの頭部をけん銃で打ち抜いて自決。もう一人が説得に応じて非常口扉の施錠を開けたため捜査員が突入して被疑者を逮捕し、目と口にガムテープを張られ後ろ手錠をかけられて金庫室に押し込められていた4人の被害者を救出した。」(加賀町警察)

この事件以前にもう一つの<人質事件>が同じ三菱銀行で起こっていました。
1979年(昭和54年)1月26日
三菱銀行北畠支店(現三菱東京UFJ銀行北畠支店)に猟銃を持った男が押し入り、客と行員30人以上を人質にした銀行強盗および人質・猟奇殺人事件が起こります。
「三菱銀行人質たてこもり強盗事件」を記憶されている方?
日本の犯罪史に残る銀行強盗事件として
その後の犯罪心理学の授業に良く登場するのが
この三菱銀行北畠支店人質事件です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/三菱銀行人質事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/ストックホルム症候群

この事件から6年後
1985年(昭和60年)3月24日の今日、上記の通り
三菱銀行横浜支店で人質たてこもり強盗事件が起こります。
当時 三菱銀行横浜支店は横浜市中区本町4丁目41、本町三丁目四丁目の交差点の一角にありました。このあたりは、戦前から金融街で多くの銀行、證券、保険関係の本店・支店が建ち並んでいました。絹取引の中心地であった北仲エリアがあったからですが、戦後もしばらく<銀行街>はここに残りました。
上記地図は昭和39年ごろの本町四丁目近辺です。10以上の金融機関がここ本町通りに集中している様子が良くわかります。

その後、三菱銀行横浜支店は1996年(平成8年)に東京銀行と合併し、旧東京銀行横浜支店に移動します。
この人質強盗事件は「元警官の短銃強盗」として6年前の<梅本事件>とは異なった意味合いで大きなニュースとなりました。

「横浜市の三菱銀行横浜支店に二人組短銃強盗が押し入り、行員とガードマンの四人を人質に立てこもった。翌3月25日 約12時間後に犯人の一人が短銃自殺を図り、警官隊が突入、人質を救出、犯人を逮捕した。(毎日新聞)」

自殺を図った犯人は元神奈川県警鶴見署の巡査部長小沢弘(40歳)、その後病院で亡くなります。
もう一人の犯人は小沢の友人で自動車金融会社社員の平尾則人(現行犯逮捕)43歳でした。
二人は警察官の制服等を着装して警察官になりすまし野毛の場外馬券売場から車両で搬送される売上金等を狙って押し入り銀行員とガードマンの計4人を人質に立てこもった事件でした。神奈川県警は警察本部長以下500余人の警察官を動員し説得を中心に人質の救出を行った結果、立てこもりから12時間後に主犯格だった小沢弘が自らの頭部をけん銃で打ち抜いて自殺。もう一人の共犯平尾則人が説得に応じて非常口扉の施錠を開け、捜査員が突入し被疑者を逮捕しました。
目と口にガムテープを張られ後ろ手錠をかけられた状態で金庫室に押し込められていた銀行関係者4人は無事に救出されます。
事件当日、現金輸送車で5億6千万円も現金が野毛から銀行に運び込まれることを調べた上、主犯格の元警官が<在職中の制服・制帽>を使い行員を騙して犯行に及んだことで神奈川県警に動揺が走った事件でした。
この事件は国会でも元警察官の事件として何回か取り上げられ、議論になりましたが
犯行そのものは稚拙で衝動的なものだったためその後の報道から<元警察官>の表記が消えていきます。
冒頭の加賀町警察の事件簿にもこのことは触れられていません。

■私の勝手な推測
もしこの事件が無かったら
「東京三菱銀行横浜支店」は現在旧東京銀行横浜支店の場所ではなくこの事件のあった本町4丁目になったのではないか?
本当のところはわかりません。
ただ、この三菱銀行は歴史的建造物で、売却後の保全をどうするかいろいろ議論があった建造物です。
現在も繰り返し議論されている歴史的文脈をどう残すか?
この銀行、表向きの理由は<手狭・保全コスト>だったような記憶もありますが、ファサードの一部がマンションの一角に残されています。

※東京三菱銀行横浜支店
1934年(昭和9年) 旧川崎第百銀行横浜支店として建てられました。
設計者はストロングビル・日本興亜ビル(旧川崎銀行横浜支店)も設計した矢部又吉です。

第875話【時折今日の横浜】3月21日

1953年(昭和28年)の今日
「横浜市戦没者慰霊塔」の竣工式が行われ戦没者追悼式が開催されました。
この慰霊塔をご存知ですか?現在の三ツ沢公園の一角に建っています。
<三ツ沢公園>
「横浜市戦没者慰霊塔」の建つ横浜を代表する公園の一つ<三ツ沢公園>をまず紹介しましょう。
三ツ沢公園(みつざわこうえん)は面積300,055m2の「新横浜公園※」に次ぐ規模を持つ運動公園です。
※「日産スタジアム」のある横浜市最大の都市型運動公園

三ツ沢公園一帯は、県道を挟んで大きく北東側と南西側の2つのエリアに分かれています。南西側には陸上競技場、三ツ沢球技場、テニスコート、軟式野球場、野外活動センターなどが設置されています。
北東側には横浜市唯一の馬術練習場、テニスコート、子供の遊び場
そして今回紹介する「横浜市戦没者慰霊塔」を含む公園施設があります。

1949年(昭和24年)10月に、第4回国民体育大会(東京国体)のバレーボール会場として使用されることをキッカケに整備され、現在まで陸上競技場、補助競技場、球技場、テニスコート、軟式野球場、馬術練習場など多彩なスポーツ施設が設置され市内最大級の運動公園となっています。
※「公園」規模では最も広いのが<こどもの国>です。

三ツ沢公園は
1955年(昭和30年)に開催された第10回国民体育大会のメイン会場となり競技場の改修、更衣所、管理棟、ラグビー場などが建設が行われます。
1964年(昭和39年)には新しく東京オリンピックのサッカー会場(現在ニッパツ三ツ沢球技場)として整備され使用されました。

<横浜市戦没者慰霊塔>
今日の本題、「横浜市戦没者慰霊塔」を紹介します。
三ツ沢公園北東側に足を踏み入れるとスポーツを楽しむ人々のにぎわいが一転静けさに包まれます。公園奥に一際高い横浜市戦没者慰霊塔が見えてきます。
この慰霊塔は
1953年(昭和28年)3月21日に建立されました。
平成になって付けられた塔の説明板には

「恒久の平和を願って
戦後50周年を迎えて、更なる平和への願いを込めて慰霊塔を改修いたしました。この慰霊塔は、西南戦争から第二次世界大戦までの戦争犠牲者の御霊を安置するため、昭和28年3月に建設したもので、左の塔は、先の大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表し、右の塔は、新生日本が将来にむかって発展する姿を表しています。市民の皆様と共に諸霊の御冥福を心からお祈りし、戦争の悲惨さを忘れることなく、恒久の平和を念じたいと思います。横浜市は、21世紀に向かって、世界に開かれた国際都市づくりを進めていますが、ピースメッセンジャー都市として、今後とも積極的に国際交流活動を展開し、相互理解を深め、世界の平和と発展に貢献していきたいと思います。
平成7年11月1日  横浜市長 高秀秀信」

何故ここに戦没者慰霊塔が建ったのか?
横浜市では
「本公園の前身は、昭和14年創建の神奈川県護国神社外苑を昭和17、18年に防空緑地整備事業として整備したものです。
空襲で護国神社は焼失しましたが、残された土地は市に譲渡され、それに国有地の無償貸付や周辺の民有地などの取得をあわせて用地を確保、公園として整備を始めました。」
と説明されています。
<護国神社>
護国神社は、
1939年(昭和14年)に内務省によって制定された東京を除く府県一社を原則とする<指定護国神社>(昭和14年内務省告示第142號)によって全国に建てられました。
建立単位が陸軍連隊区という軍の区分をベースにしたため、中には複数社が作られた県もありました。また、明治期に多く建てられた招魂社・忠魂碑等が護国神社となっていったケースも多くありました。
戦争が終わるまでの6年間で51社が指定されます。
ところが、全国1道2府43県の中で、神奈川、宮崎、熊本の3県の縣護國神社が未着手、または造営中のまま終戦を迎えることになります。
その一つ、神奈川縣護國神社は1942年(昭和17年)7月27日に許可が下り、社殿造営が開始されますが、ほぼ完成間近のタイミングに横浜大空襲があり焼失してしまいます。
その後、
この地一帯が三ツ沢公園となりその一部<外苑>に「横浜市戦没者慰霊塔」が建つことになります。
一方、護国神社の無かった宮崎、熊本の2県では戦後継続して新社殿建設が行われ、
宮崎が1955年(昭和30年)に竣工、
熊本が1957年(昭和32年)に竣工します。
<唯一護国神社のない県>
1953年(昭和28年)
神奈川県は戦後いち早く<神奈川方式>と呼ばれる”多宗教”の「戦没者慰霊堂」が横浜市港南区最戸に建てられ戦没者慰霊の役割を担うことになります。
結果、全国で唯一<護国神社>の無い県となりました。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f153/p2926.html
また、横浜市としては
<横浜大空襲>を含めた戦争犠牲者を悼む「横浜市 平和祈念碑」が
中区の大通公園中程に建立されています。
1992年(平成4年)5月29日建立。
建立者は「横浜戦災遺族会」
彫刻家の横田七郎の作品で台座正面には「平和記念碑 横浜市長 高秀秀信」とあります。毎年5月29日、大空襲の犠牲者を悼む平和祈念碑の内部が公開されます。
戦争の記憶を心に留めるためにも、
時にはこれらの慰霊碑を訪れることをお勧めします。
(三ツ沢公園関連ブログ)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園

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No.309 11月4日(日)名実共に記念館

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(3月21日関連過去ブログ)
No.81 3月21日 猛女養成学校出身

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第874話【よこはまモノクローム】

■「猥雑な裏通り」<猥雑>という言葉
いかがわしく感じることがあるのは
猥に褻がつながることがあるからだ。
私は「猥雑」さに安堵感を持つ。
猥雑とは日常と非日常の隙間に似ている。
実は最近の横浜中華街には失望感がある。
奇麗すぎる。
この街は 裏通りが 心地よい。

■ホテルから結婚式場へここはかつて「オリエントホテル横濱開洋亭」だった。
現在、「横浜 伊勢山ヒルズ」という結婚式場に。
ここに建つ際に<景観>が問題なったという話は聞かない。

■呉越同舟
尾根歩きの時 良く
移動通信の中継局に出会う
尾根は通信条件が良い。
もう一つ、市街地では中々中継塔を建てるのが難しなっていることもある。
画像は
KDDIとDocomoだった。
デザインが違うのは 何故だろう。

■今も
二十年前にもあって、今もあり。
いたずら書きは永遠!?

■鉄道道
野毛には不思議な道がある。
かつて湘南電気鉄道が桜木町駅に向かう用地だった名残の三叉路だ。
地図を眺めると
二本の並行した独特のカーブが鉄の香りを漂わせている。

■食の力
正確なデータは知らないが
横浜中華街は世界最大の料理の街だろう。
入れ替わりも激しい。
これが中華街のエネルギーに違いない。

■観覧車
昨年、LEDに仕様変更された<大観覧車「コスモクロック21」>
久しぶりに裏側から観た。
この場所は夏場に通ることが多く、木の茂みに遮られこの姿をあまり意識していなかった。
賛否はあるようだが、このエリアで記憶される観覧車は休日賑わう「よこはまコスモワールド」の中心施設である。
全高112.5メートルの観覧車は
ランドマークタワー展望フロアとともに 街を俯瞰する最高の空間になっている。
たまには見上げる経験も良いものだ。

■カタカナ作品
ランドマークタワーとクイーンズスクエアを繋ぐ回廊に
一度観たら忘れないオブジェが建っている。
「モクモク・ワクワク・ヨコハマ・ヨーヨー」
最上 壽之の作品。
1981年に第12回中原悌二郎賞の優秀賞を受賞した作家で、
ドンドンドンドン
ボクノムコウニ ボクガイル
ワクワクワクワク
といったカタカナタイトルが特徴だ。

■黄昏の街
モノクローム写真に魅せられた最近、
黄昏時の街中を撮るのが楽しくなっています。
中でも、パチンコ店の外観は面白い。

■大通公園
運河の街だったこの街の吉田川が今、緑深き公園通りになっている。

■2つの路地
偶然撮った二つの路地。その奥の風景のために押したシャッター。

■大繁忙期。
今日は例年に比べて 好調だそうです。

■冬入道
季節を告げなかったら、真夏の風景に見える。
その意味で季節のない街に生きているが異常続きだ。
この異変が 糸魚川の大火となってしまったのだろう。

■野毛を支える!!!
ことばは面白い。ことばは使う人に関係なく光っていいる。
■誰もいないビル
まだまだ変化し続けるみなとみらい。
このビルのイルミネーションは竣工間近だからできたのだろう。
■師走
紅葉坂を下ると、根岸線の橋梁の奥にみなとみらいのビル群が並ぶ。
■横浜水道境川水路橋
相模川寒川取水堰から引地川・境川を越え、小雀浄水場へと水を運んでいる。知らないと鉄道橋のように見える。まるで水の高速道のようなものだ。
相模川から取水した水は 横須賀と横浜南部の水源となっている。
■送電線の世界も奥が深い。■ここどこ?
いつも歩いている道すがら。改めてその風景に驚くことがある。

第873話 【横濱絵葉書】駅前劇場

「横濱劇傷(場)
Yokoh Ma Tkoatrs Nera Yokohama Street.」
日本語も英語も怪しい! 誤植だらけ
たぶん
キャプションの誤植は多けれど!!!
Yokohama theater near Yokohama Station.
ではないかなと推理しました。
英文は「横浜駅近くの横浜劇場」としたかったのではないか?
謎解きしてみます。

戦前、さらに時代を遡り
関東大震災まで、横浜は日本有数の<劇場>が建ち並ぶ
賑わいの街でした。
劇場街の中心は<伊勢佐木町>でしたが
1915年(大正4年)8月15日に二代目横浜駅が高島町に開業します。この場所は 京浜電車、貨物用高架線、東海道線。そして市電が交錯する狭い空間でしたが、完成後駅前が少しづつ賑わっていきます。
その一つが<大劇場>の開業でした。
1920年(大正9年)9月11日
花咲町に歌舞伎などを行う総合劇場がオープンします。
二代目横浜駅から南へ約300mの<桜川>に面した場所だろうと思われます。東京と横浜の実業家達が出資し、劇場経営を松竹合名会社に任せます。
ところが
1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災で焼失しわずか3年弱でその姿を消すこととなります。
さらに時期を絞ってみます。
劇場前には「市川左團次」の役者のぼりが立っているのが判ります。
横浜劇場の演目記録から左団次を探すと
1921年(大正10年)6月初旬
大歌舞伎
市川左團次の「歌舞伎 義経千本桜」の興行がありますので、おそらく絵葉書の撮影時期はこの頃と推理できます。

「横濱劇場」は、当初の目論見とは大きく異なり
交通事情も悪く(改善されず)経営不振に陥ります。
震災で焼失後、復活されることなく歴史から消えてゆきました。

横浜駅は、現在の桜木町に誕生し、二代目がこの絵葉書の劇場近く高島になりその後、現在の位置に移りました。
初代と三代目は華やかな歴史を刻んでいますが
8年の歴史を持った二代目の「横浜駅」は殆ど語られることはありません。

第872話【横浜市境を歩く】川崎市境1

市境の基本は
・川筋
・尾根筋
・道路筋
※横浜市境を歩くと横浜が見えます!
今回は川崎・横浜 市境その1

ポイント1
<川崎市下麻生3丁目>
<青葉区寺家町> ●川筋
鶴見川の市境はごく一部です。
横浜市域の北部を流れ東京湾に至る<鶴見川>は一級河川ですが、市域を分ける”境川”となっているのはごく一部に限られています。
何故、暴れ川鶴見川が市域を分けないのか?
一方で、横浜市域の西部は二級河川<境川>によって多くの部分で分かれています。
このエリアを流れる鶴見川上流は恩田川との合流点までを「谷本川(やもとがわ)」とも呼ばれています。

ポイント2
<川崎市麻生区早野>
<青葉区寺家町> ●「寺家橋」
横浜市の西北部に広がる寺家(じけ)は、都市部に貴重な里山が維持管理されているエリアです。寺家エリアの多くは「東京都町田市」と接しています。(別レポートで紹介します)
このエリアは寺家ふるさと村(じけふるさとむら)と呼ばれていますが、
鶴見川に架かる寺家橋は「じげはし」と知って、少し驚きでした。

ポイント3
鶴見川「河内橋」(かわちはし)付近
横浜あおば霊苑 ●尾根筋
短い<川筋区間>に終わりを告げ、長い尾根筋市境ルートに入ります。
横浜市市域と川崎市域の境目の多くが<尾根筋>です。途中、一部を除いて港北区の日吉エリアあたりまで尾根歩きが可能です。
横浜と川崎の<境>がどのような自然条件で決定したのか、地理学的にも面白いルートと言えるでしょう。

ポイント4
●尾根筋
★★★ ここは ちょっとマニアックですが、おすすめです。
横浜市境ルートで最も”ケモノミチ”のような尾根筋ポイントがここです。
横浜の市境には南部に公田や朝比奈エリアがありますが、
この道も負けず劣らず ハイキングコースになりそうな<縦走>体験ができます。

ポイント5
●尾根筋 かなりブッシュを掻き分けないと前に進めない道でした。
草刈りの予定でもあるのか、白いビニルテープが市境に張られていました。
地面の市境道標は
まるでヘンゼルとグレーテルの<パンくず>ような感じでした。

ポイント6
●尾根から道路へ ここは川崎市と横浜市にまたがって開発された住宅地。
川崎側 虹が丘
横浜側 すすき野
1970年代〜1980年代に開発・分譲され、両市で土地区画整理事業が進められました。
横浜市青葉区すすき野は、
鉄町、黒須田町、元石川町から新設されたエリアです。
最寄駅は東急田園都市線あざみ野駅または小田急線柿生駅で、エリア中央に東急SCがあります。

ポイント7
●市境の奇妙 このポイントには不思議な段差がありました。
市境にある「すすき野二丁目北公園」(すすき野二丁目8−5)
面積5,000m2
公開1984年1月25日(S59年)
公園横に隣接して 広い道路があります。
この道路には車止めがあり車両は侵入できません。
これは良くある道路使用のスタイルですが
一般道とつながる交差点に段差がありました。

(川崎2につづく)

第871話 【絵葉書の風景】大山公爵夫人

神奈川高等女学校展覧会 松屋鶴屋の裾模様実演説明
正面 大山公爵夫人
来観者18,000人 昭和四年十一月二・三日
●撮影場所:松屋鶴屋
●撮影時期:1929年(昭和4年)11月2日〜3日
この絵葉書のように描かれた風景が明確に示されていることは珍しい。
絵葉書を<記録メディア>として利用した典型事例の一つといえるでしょう。
ここに登場する「神奈川高等女学校」
現在、沢渡にある神奈川学園高等学校の前身と考えられます。
昭和初期の<神奈川高等女学校>は少々紛らわしいので推定に苦労します。

<神奈川高等女学校>か<神奈川県高等女学校>か?
<神奈川高等女学校>は
1914年(大正3年)に「横浜実科女学校」として創設されます。
創設の地は南吉田にあった<リンネル工場>跡地の仮校舎だったそうです。
1915年(大正4年)に「横浜実科高等女学校」となり
1921年(大正10年)から「神奈川高等女学校」と改名します。
戦後の新学制で「神奈川高等学校」
その後「神奈川学園高等学校」として現在に至ります。
http://www.kanagawa-kgs.ac.jp
http://touyoko-ensen.com/syasen/kanagawa/ht-txt/kanagawa18.html
ここで勘違いし易いのが<神奈川県高等女学校>
1900年(明治33年)10月10日に創立。
翌年に神奈川県立高等女学校となり
1930年(昭和5年)4月1日には
「神奈川県立横浜第一高等女学校」となり「第一高女」と呼ばれました。
絵葉書発行の昭和四年の時点では
「神奈川高等女学校」(沢渡)
「神奈川県立高等女学校」(平沼)
の二校が近くにあり間違いやすかったと思います。
ちなみに平沼の第一高女は
1900年(明治33年)10月10日創立  神奈川県高等女学校
1901年(明治34年)5月7日  神奈川県立高等女学校
1930年(昭和5年)4月1日  神奈川県立横浜第一高等女学校
1948年(昭和23年)4月1日  神奈川県立横浜第一女子高等学校
1950年(昭和25年)4月1日  神奈川県立横浜平沼高等学校
もう一つ
似た女学校がありました。
程谷町立実科高等女学校
1926年(大正15年)11月30日認可
校名 程谷町立実科高等女学校
1927年(昭和2年5月)横浜市立実科高等女学校
1934年(昭和9年4月)横浜市立高等女学校
1945年(昭和20年4月)横浜市立第一高等女学校
1948年(昭和23年4月)横浜市立桜丘高等学校

(会場)松屋鶴屋      <昭和7年>
この神奈川高等女学校展覧会が開催された松屋鶴屋は
昭和4年時点で推測すると
伊勢佐木通り入口の「鶴屋(呉服店)」と思われます。
翌年の昭和五年に「松屋(呉服店)」に名称変更されました。
ここが現在の< MATSUYA GINZA>です。
No.30 1921年1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=593

横濱デパート物語(MATSUYA編)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5499
この絵葉書の主題にあたる
大山公爵夫人
私にとって 劇的出会いでした。
詳細は次回に!

第870話 横浜絵葉書の風景<年賀葉書>

2016年12月
年も押し迫ってきました。
年賀状の準備の季節です。 今回紹介する<絵葉書>は年賀状です。
発行年は 1915年(大正4年)
絵柄は この年の干支にちなんでウサギ達が楽隊を編成
大八車に農産物と果物を積んで賑やかに行進する絵柄です。
発信者は
「堀田忠次郎」「堀田隆治」の二名連名。
両名は
「開港五十年紀念横浜成功名誉鑑」に登場しています。 これを含めたいくつかの資料よれば、
慶応3年横浜萬代町に三忠合名会社を設立、ジャガイモ、玉ねぎ、蜜感、農産物、海産物を主に輸出入する会社として登場、一時代を築きます。
この年、1915年(大正4年)の年賀状にはもう一つ意味があったようです。
政界進出の準備だったのでしょうか
9月25日に行われた神奈川県議会議員選挙に
政友会から立候補、262票(次点)で落選しています。
落選で懲りたのか政界への立候補はこれだけのようです。
この時、政友会としてトップ当選は「新井清太郎」で352票でした。
現在の市役所前に「(株)新井清太郎商店」ビルが建っています。
貿易商”横浜三忠商店”を継承した企業が現在も事業を営んでいます。
株式会社 三忠
http://www.sanchu.co.jp/enterprise_domain/history.html

<年賀状>
年末に出し、正月にまとめて配達される年賀状
古くは江戸期に街道の整備がすすみ「飛脚」制度が充実する中、豊かになった町民・商人の間で「年賀の書状」のやりとりが新年に行われました。
今日のように<正月>に集中して賀状のやりとりが行われるようになったのは明治の郵便制度が整備されてからのことです。
<はがき>の登場によって、手軽に多くの人にメッセージを送ることができるようになり、爆発的に<年賀はがき>として利用されるようになります。
この現象は現在の<物流業界>の様相と似ていて、
年末数日に年賀を目的とした郵便の取扱量が急増・集中し流通がパンクします。
そこで制度として<年賀郵便>のルールを決めます。
ようは1月1日の消印に日本人はこだわったのです。郵便のルールは投函されたら順次配達していきますから、人々は消印付く年末ギリギリを狙った訳です。
1899年(明治32年)に
年賀郵便だけ 暫定的に普通郵便と分離します。
1906(明治39)年
そして、年賀特別郵便規則が公布され正式に法制化され現在に至ります。
翌年の
1907年(明治40年)から
「年賀」であることを表記すれば、郵便ポストへの投函も可能となります。
2017年は
年賀状制度110年目を迎えることになります。