【番外編】川崎駅前は狩猟場だった?
この画像は《ジャパン・パンチ》1875年(明治7年)10月号に掲載されていたものだ。[川崎駅]がバックに描かれている。 《ジャパン・パンチ》は 1862年(文久2年)特派員画家だったチャールズ・ワーグマンが横浜で創刊し1… 続きを読む »
この画像は《ジャパン・パンチ》1875年(明治7年)10月号に掲載されていたものだ。[川崎駅]がバックに描かれている。 《ジャパン・パンチ》は 1862年(文久2年)特派員画家だったチャールズ・ワーグマンが横浜で創刊し1… 続きを読む »
前回 スタートで「大江橋」の名前の由来からややっこしくなったと書いた。 後段はこの謎となった「大江橋」の由来について探ってみたい。 「大江橋」ほぼ100%、各資料には 「県令 大江卓の名に因んで付けられた」とある。 恐ら… 続きを読む »
今回「大江橋」をテーマにしようと思った。ところがスタートから躓いてしまったのでこのあたりを少し整理しながら「大江橋」を紹介していこうと思う。長くなるので二回に分けたい。前段は史実の整理なので後段の方が面白いかも。■大江橋… 続きを読む »
当たり前だが橋にも“名前”がある。命名に規則は無く、地名や人名、企業名など様々だ。 橋の名には必ずその<川>の名が付く? と素朴なギモンから市内の橋梁マップを眺め始めた。ザクっと眺めていくと 本流… 続きを読む »
「移民橋」という名の橋はない。 移民の街だった「横浜」だからこそ“移民”の橋があった。 四方を海に囲まれた日本に暮らす我々にとって、国境は海にある。 「海外」という熟語がふさわしい。 国交を限定してきた江戸時代から明治に… 続きを読む »
目下、横浜の橋の原点ともなる「吉田橋」に関して資料発掘中。 面白い素材を発見したが<謎>が究明できないので別な話題として帷子川河口の簡単な取りまとめをしてみたい。 橋の多くは<川>に架かる。現代は陸橋も多いが、基本 橋と… 続きを読む »
1月17日は阪神淡路大震災から21年目だった。 私たちは9月1日、3月11日と共に忘れてはならない震災の日である。 “災害は忘れた頃にやってくる”のではなく “災害は忘れなくてもやってくる”ことを自覚しておく必要がある。… 続きを読む »
横浜の橋といえば「吉田橋」を採り上げない訳にはいかない。横浜開港場が誕生した時に架けられて以来、この町の成長を見守ってきた横浜の代名詞といっても過言ではない。今回から数回に分けて「吉田橋」を紹介する。 まずは簡単に「吉田… 続きを読む »
横浜市内でこのような“橋との出会い”があるとは想像もしなかった。 まるで映画の一シーンのように“この橋”は目前に現れた。出会いの時期、ルートにも恵まれたのかもしれない。現存する最古のアーチ型石造橋だそうだ。「昇龍橋」 橋… 続きを読む »
「関内」という住所は無く開港時の居留地一帯を<関内(かんない)>と呼んでいます。 外国人居留地が治外法権であると同時に、外部と隔絶したエリアであったため、そこに関所を設け関所の内側と外側を表す地域名称として「関内」という… 続きを読む »